強豪・池田野球部はなぜ復活したのか
秋季高校野球四国大会で池田(徳島)が準優勝し、来春センバツ出場を確実にした。
故蔦文也元監督に率いられ、甲子園を沸かせた高校野球史上屈指の人気校。「やまびこ打線」と呼ばれた強力打線で82年夏、83年春に夏春連覇を果たすなど、計16回の出場で3度の全国制覇を誇る。92年夏を最後に聖地から遠ざかっていたが、長い低迷から脱出し、実に22年ぶりの甲子園出場に当確ランプを灯した。
池田はなぜ復活できたのか‐。
79年夏準優勝時の主将で、2010年から母校で2度目の指揮を執る岡田康志監督(52)は「寮の復活が大きい」と、昨年春から部員が生活する『ヤマト寮』をその要因に挙げた。
全盛期に蔦元監督の自宅裏でナインが暮らした『蔦寮』は、寮母を務めた妻・キミ子さん(90)が高齢になり、寮生も減ったため00年に閉鎖された(10~11年に1人だけ受け入れ)。
寮がなくなった野球部は、ますます甲子園から遠い存在になっていた。09年から夏の県大会で3年連続初戦敗退を喫するなど、低迷が長期化。寮がないことを不安視する声が、地元ファンの間でささやかれ始めた。
「もう一度、池高の勇姿を見たい」‐。一昨年の10月。地元の解体工事会社「ヤマト重機」の男性社長が、学校から徒歩2分の距離にある既存の建物を買い取り、野球部の寮として提供してくれた。
4階建てで、6~8畳の部屋が計12室。約20人が入居可能だ。昨年春から遠方出身の選手が入寮。現在も部員41人(うちマネジャー3人)のうち、11人がここで寝食をともにする。
寮が復活したことで、早朝練習ができるようになった。
寮生は午前6時10分に点呼を済ませると、そのままグラウンドに直行。近隣在住の選手も合流し、授業開始まで約40分間、走り込みやティー打撃を行う。
全体練習後も、30分間ほど自主練習の時間が取れるようになった。帰ってからも、午後11時の消灯まで寮の前で素振りを繰り返す選手の姿が見られる。
寮長を務める山下航平内野手(2年)は、美馬郡つるぎ町の出身。JRで30分ほどの距離で通学も可能だが「朝練に出たいから」とあえて寮に入った。
美馬市出身の高井克也内野手(2年)も同様だ。当初はJRで通学していたが、「1時間くらいかかるので時間がもったいない。もっと練習がしたい」と、1年時の9月から寮での生活を選んだ。
「1日にすれば1時間ちょっと練習時間が増えただけ。でも積み重ねれば大きな差になる」と岡田監督。加えて「集団生活をすることでチームワークの大切さを知る。親元を離れて自立し、精神的にたくましくなる」と、寮生活による選手たちの成長を認める。
全盛期から20年以上が過ぎてもなお、県内には「池高で野球がしたい」と熱望する選手は絶えない。ただ、学校がある三好市は徳島県西端の山あいの町。JRも本数が少なく、通学は便利とはいえない。寮がない時代は、通学困難という理由で入部を断念する有望選手も多かった。
寮復活2年目の今年は、1年生16人のうち半数の8人が寮に入った。徳島市や鳴門市といった県東部出身の選手も受け入れることができた。
寮の選手は、学校近くにある食堂『どん』で昼、夕食を世話してもらっている。メニューは店主お任せで、肉、魚、野菜をバランスよく出してくれる。「営業時間を過ぎても食事を出してくれるし、焼き肉や鍋も出るからうれしい」と寮長の山下。風呂も格安で年間契約した銭湯『池田温泉』を使わせてもらっている。
「地域ぐるみで野球部を応援してくれる。もう一回甲子園に行ってくれと、一生懸命にバックアップしてくれる。そういった方々の思いが、ここにきて形になったんだと思います」。
復活への長い道のりを支えてくれた池田の町に、岡田監督は感謝した。
(デイリースポーツ・浜村博文)