増島みどりが迫る…東京はなぜ勝てたか(上)

 「ブエノスアイレス発 増島みどり 東京はなぜ勝てたか」

 東京に、56年ぶりに聖火が戻ってくる。国際オリンピック委員会(IOC)は7日(日本時間8日)、ブエノスアイレスで総会を開き、2020年夏季五輪の開催都市に東京を選んだ。IOC委員の投票でイスタンブール、マドリードを大差で破り、1964年の第18回大会以来となる開催を決めた。その大きな原動力となったのは、パラリンピック陸上の佐藤真海(31)=サントリー=のスピーチ‐。五輪開催地を決めるIOC総会の現地取材は今回で5度目のフリーライター・増島みどり氏が、感動を巻き起こした4分間の秘密に迫った。

 IOC(国際オリンピック委員会)のロゲ会長が封筒から「TOKYO 2020」と書かれたカードを取り出した瞬間、招致活動の全てで難しいスピーチを担当してきたフェンシングの太田雄貴(27)=森永製菓=は、両こぶしに力を込めて雄叫びをあげ号泣した。

 「喜び過ぎて泣き過ぎて抱き合い過ぎて、何が何だか分からない」と苦笑したが、アスリート代表として招致をリードし続けた情熱は全ての人に伝わった。もう1人のアスリート代表もまた、情熱をテーマに戦った。

 プレゼンテーションに備え、会場となるホテルで最後の通しリハーサルが行われた5日、佐藤は舞台で、言葉を詰まらせていた。重要な理念「スポーツの力」を、しかも冒頭で、全聴衆を引き込むように訴える4分間のパートは想像以上に難しい。何度も練習してきたはずが不安やどこか気恥ずかしさにかられ、東京招致委員会のコンサルタントで、IOCへのプレゼンを全て担当してきたマーティン氏に思わず「もう少し自然に話すほうが伝わるのでは?」と訴えた。

 マーティンはすぐに強く否定した。

 「ダメだ。世界中何億人が観る舞台で、キミは人生を4分に凝縮して話すんだ。それが自然なことか?これ以上ないパッション(情熱)を込めるんだ」

 情熱‐これこそ、前回2016年招致に失敗した際、数多くのIOC委員から指摘された重大な「敗因」だった。開催提案は他都市を圧倒するほど綿密に練られ素晴らしい。英語も、話の構成も台本通り無難にこなす。しかし「NO PASSION(開催への情熱がない) TOO OLD(若々しさの欠如)」と。それは、ソフトよりハードや運営技術、「HOW TO」を優先しがちな日本への批判でもあった。

 マーティンの言葉に佐藤は腹をくくった。そしてプレゼン前夜、ホテルの自室で一人、最後の練習に臨んだ。骨肉腫で右足を切断し義足をつけた時の思い、故郷が津波に襲われたこと。自分のことだけではない。阪神淡路大震災や日本中で起きている災害や悲劇から立ち直る人々のために、スポーツはわずかでも役に立てないのか。そんな思いを込めて話す途中、初めて自分のスピーチに涙があふれたという。

 プレゼン当日、佐藤が話し出すと約1000人が集まっていたプレスセンターは静まり返った。涙ぐむ外国記者、そして日本人記者にも「涙せんが緩くなったなぁ」と照れる者もいた。今回の招致活動中「なぜ2度目の五輪開催を望むのか」との理念の脆弱さは、東京のアキレス腱と指摘された。しかし、震災復興で再認識した「スポーツの力」を訴え、活動する全員が一体感を共有する戦略を固め直した。佐藤は、そのシンボルとしての重要な任務を果たしたのだ。

 開催地決定後、猪瀬都知事は招致活動の収穫を、「新たな組織作りを示せたこと」とこう表現した。

 「縦割りでも、部署割りでも、トップダウンでもない。任務にあたる全員が同じ情熱を持って団結すれば、こうして夢がかなう。招致活動で私自身がそれを学んだ」

 佐藤は歓喜に沸く輪の中で、帰国後真っ先に故郷・気仙沼に帰り「招致成功を約束した子どもたちに報告したい」と笑った。

  ◇  ◇

 増島みどり(ますじま・みどり)1961年生まれ。スポーツ紙記者を経て97年、フリーのスポーツライターに。サッカーW杯、五輪など海外取材経験豊富で、五輪開催地決定のIOC総会取材は、98年長野冬季五輪の招致を決めた91年バーミンガムから今回で5度目。98年フランスW杯代表39人のインタビューをまとめた「6月の軌跡」(文芸春秋)でミズノスポーツライター賞受賞、著作多数。

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