ブラジル代表日系4世、杉町が跳ぶ
陸上・走り高跳びから転向して成功した異色の400メートルハードラー、ブラジル生まれ、日本育ちの杉町マハウ(31)=日本ウェルネススポーツ専門学校職員=がブラジル代表としてリオデジャネイロ五輪に挑む。日系4世として日本と祖国、2つの国を背負う杉町は「ブラジル代表の誇りと、日本への恩返し」を胸に、決勝レースでの活躍を夢に見る。
日本人、いおり夫人との間に生まれた2歳8カ月の長男の名は「世成(セナ)」、ブラジルと日本で通用するようにと名付けた。ブラジルが生んだF1の“音速の貴公子”故アイルトン・セナさんにちなんだものだ。で、今年3月1日、次男が生まれると、杉町は考えた。長男と同じ、漢字2文字でと決めていた。そこで、ふと頭に浮かんだのは「俐生」。リオと読ませる。「たまたまですよ」と杉町は照れたが「僕の頭の中で、それほどリオ五輪の存在が大きかったのかも」と笑った。
杉町は、リオ五輪に2つの夢を描く。「祖国ブラジルのオリンピックで決勝のレースを走ること」と「育ててくれた日本に恩返しすること」だ。
およそ100年前に、「北海道出身らしい」という曽祖父が移民として海を渡った。祖父はポルトガル、スペインの血を引く祖母と結婚、父はブラジル人の母と結婚した。杉町は日系4世。一足先に職を求めて日本にやって来た父を追って、マハウ少年が、日系ブラジル人も多く住む栃木県足利市に来たのは8歳の冬。「12月にブラジルで小2を終えたが、日本ではまた、1月から始まる2年生の3学期に編入になった」と笑う。
400メートル障害(ハードル)の選手だが、まずは走り高跳びの話をする。
陸上競技に出会ったのは御厨(みくりや)小5年生の時、地元の小学生大会に走り高跳びの選手として出場したのが最初だった。市内の協和中に進んでも、陸上部で走り高跳びの選手。才能は大きく開花して、全国大会で1メートル92を跳び、2位になった。「すぐ後に、トップと同じ93を跳んだが、記録の公認されない大会で、悔やんだのを覚えています」
高校は、中学での活躍を買われて陸上の名門、お隣、群馬県太田市の常磐に進んだ。相変わらず走り高跳びの選手。「フィールド種目は練習もゆるく、楽しくやっていました」というが、3年生のインターハイでは5位(1メートル98)入賞の実績を残している。
「スポーツに特化した勉強ができる」という理由で、次に進んだのは日本ウェルネススポーツ専門学校だった。ここで、最終学年の2年生でベスト記録は2メートル10にまで伸びた。
そんな矢先、やっと400メートルハードルと出合うことになる。ひょんな出来事がきっかけだった。「卒業を前に、皆で思い出作りの400メートルハードルをやろうということになった。そこで、思いもかけずうまく走れて、確か52秒台でゴールしたんです」。驚いたのは自分だけではない。周囲も勧めるところとなって「ハードラー杉町」が誕生したのである。
「僕の400メートルハードルの原点は走り高跳び」と、杉町は断言する。脚力と、ノビノビ育んだ身体能力が最大限に生かされることになったのである。
20歳で出会った400メートルハードルで、杉町は一気にブレークした。群馬県代表で出た国体では4度の優勝。一方で、ブラジル選手権では08年から13年まで6連覇を記録、世界選手権にも3度出場した。08年北京五輪はブラジル代表として準決勝進出を果たしている。だが、杉町の胸中には痛恨の思いが残る。12年ロンドン五輪代表の座を逃したことだ。
「国際陸連の標準記録を突破。ブラジル選手権でも優勝したが、国の陸連が決めた派遣標準記録に届かなくて落選した」。泣きながら誓ったのは、リオ五輪でのリベンジ。「決勝に残ってみせる」だった。
今季は既に、5月8日のセイコー・ゴールデンGP川崎で49秒26、同22日の東日本実業団で48秒96と、国際陸連が定める標準記録(49秒40)をクリア。5月末時点で、世界ランク7位にいる。
「“マハウ”は、ブラジル・インディオの言葉で、白い鳥と聞かされた。そのイメージでハードルを越えていきたい」。栃木と群馬で育ち、今は埼玉に住む。日本への恩返しを胸に、祖国で決勝を夢見る選手が、ここにいる。