グラブメーカー代表 村田裕信氏

 あこがれのプロ野球選手と全く同じグラブが、流通している。ちょっと野球に詳しい人なら「プロの名手は、グラブにこだわり抜く。店の物と本物は違う」と考え、にわかには信じがたいだろう。しかし、そんな夢のような話を現実にした人がいる。グラブメーカー「ドナイヤ」代表・村田裕信さん(40)だ。並み居る大メーカーがしのぎを削る世界で、地クラブならぬ“地グラブ”をアイテムに、村田さんはただ1人、プロと、工場と、ショップと、そしてアマチュアプレーヤーをつなぐ名コーディネーターを演じる。

  ◇  ◇

 ‐ミズノ、ゼット、アシックス、SSKの大手にウィルソン、ローリングス、ナイキ、ハタケヤマ、スラッガー、ザナックス…。いったいいくつメーカーがあるんだ、という成熟した業界に新規参入、それもたった1人で、という、失礼な表現をすれば“蛮勇”ぶりが、非常に興味深いのですが。

 「やりたいことを追いかけ続けたら、こうなった、ということでしょうか」

 ‐ブランド名が関西弁の『ドナイヤ』。ユニークですよね。

 「ロゴを見ていただくと分かると思うんですが、最初はかっこよく『ドリームエージェント』にしようとしていたんです。ロゴは決まったのに、商標登録の段階で、ドリームエージェントは先を越されてました。それで、いろんな方に相談して、なぜか『私らしい』という理由で『ドナイヤ』に落ち着いたんです」

 ‐ユニークな名前が、足かせになることはありませんか?

 「ふざけた感じで、商品も悪ければ目も当てられません。逆に、モノが良ければインパクトは倍増しますから、そこを狙いたいですね」

 ‐実は私もプロの各球団を取材する中で、ドナイヤさんのグラブをよく見かけるようになりました。しかも『うまい』とされている選手が持っている。そのあたりの秘密はじっくり聞かせていただきますが、まず、先ほどおっしゃっていた『やりたいことを追っかけたら』というところを詳しく聞かせてください。

 「はい。私は14歳のころ、自分の将来をわりと明確にイメージしました。高校を出て、大学に行って、ちゃんとした会社に入り、もし物足りなければ、会社を辞めて、25歳が年齢のリミットとなるワーキングホリデーを経験する。その後、それを生かした職業に就き、35歳で独立する…、といった感じです」

 ‐それで、実際は?

 「はい。高校は工業科でした。ほとんどが就職という中で何とか頑張って、大阪産業大学の2部の工学部に入りました。そこでも自分の決めた将来を曲げず、関西電力の大手子会社である関電興業(株)(現関電プラント(株))に入社できたんです」

 ‐順風満帆ですね。

 「ギリギリですよ。受験もそうですし、入社試験でも最下位でした。ただ、あのころは世間知らずで、面接では『社長になれますか?』なんて質問もしました。社長は本社から来るに決まってるのに。ただ、3年後輩の入社式で、僕の発言がまだ話題になっていたと聞いて、そんな無謀さもプラスに働いたのかな、とは思いますね」

 ‐将来が約束されるような“いい会社”ですから、ワーキングホリデーに行く必要はなくなりますね。

 「確かに、入ってからも、仕事は楽しいし不満はありませんでした。発電所のタービンの保全作業を監督する仕事で、基本的には作業は作業員、僕たちは指示する、見る以上のことをしてケガでもしたら周囲に迷惑がかかる、ということで作業には携わらないのですが、性分としてつい、一緒に油まみれになって作業する。誰もやらないことをやったという思いはありましたが、当然、周囲には賛否がある。また、これをやるために生まれてきた、といえるほどの満足感はありませんでした」

 ‐それが25歳?

 「はい。ワーキングホリデーに行けるリミットです。私は片道切符を手にして、英語も全くしゃべれないまま、オーストラリアに行きました」

 ‐思い切りましたね。

 「到着地のケアンズでは、宿の取り方も分からず本当に心細かったです。それでも何とか、ケアンズからエアーズロック、ダーウィンへと旅程を進めていたんです」

 ‐どんな町でしたか?

 「実はそこでしばらく働くことになるんですが、それも偶然から始まりました。私は酒も飲めないのに、ダーウィンのあるクラブから音楽が聞こえてきて、フラッと店内に入ったんです。するとたまたま日本から来たアメリカ海軍のお客さんがいて、日本語も分かるから友達になれた」

 ‐お客さんとして通ったんですね。

 「最初はそうです。ただ、そういう“縁”のある場所ということで、そこで働きたくなった。英語もできないのに、何度断られても『アイウォントゥワークヒア』だけ繰り返して、一週間通って、ようやく許してもらえたんです」

 ‐その後の旅費を稼ぐことができた。

 「結果的にはそうですが、実は大変でした」

 ‐というのは?

 「ダーウィンはオーストラリア北部の町で、第2次対戦の時、日本軍が唯一、爆撃したところだったんです。反日感情がすごくて、日本人はいませんし、店でも汚い言葉を吐かれる、頭や足にビールをかけられたことも、何度もあります」

 ‐親日的な町に移るのが普通ですよね。

 「でも、ダーウィンに日本人がいないということは、日本人を知らない彼らからすると私の行動すべてが“日本人とは”につながる。日本を代表する気はありませんが“日本人とは”の後“あんなもんや”と軽く見られたくなかった」

 ‐それで、仕事を続けた。

 「とにかく一生懸命やっていたら、70人のスタッフのうち3人だけ許されるマネージャーになってました。そのころにはみんな、本当に心強い味方として僕のことを『ヒロ、ヒロ』って慕ってくれてましたね」

 ‐ワーキングホリデーの理想的なあり方ですね。

 「他のワーキングホリデーで来ていた日本人は、それぞれがつるんで、日本人関係者が経営するような場所で働いてました。それをしない私を疎ましく思っている人もいたようで『現地の人間とマリファナをやっている』というような、全く根も葉もないうわさまで立てられました」

 ‐オーストラリア人より日本人がやっかいでしたか。

 「ダーウィンの仲間に迷惑もかかりそうだったので、旅を再開しました。長距離バスに乗って、また飛び込みで、今度は西オーストラリア大に『入学させろ』と」

 ‐仕事ではなく、学校?

 「やはり帰国後は英語を生かしたかったし、その時点の英語力では、ダーウィンの仲間に100%の気持ちを伝えられてなかったですから。それで、ここでも筆記は全然ダメでしたけど、店での仕事が幸いしてある程度しゃべれるということで、合格しました」

 ‐そこで身につけた英語力を、早く日本で試したいところでしょう。

 「いえ、まずはダーウィンです。『ヒロが戻ってきた』と喜んでくれて、宿代はいらないし、いろんな人がスカウトしてくれて、仕事にも困らなかった。そこで再会を誓って、帰国しました。まだ再会は実現してませんが」

 ‐しかし充実してましたね。帰国後は?

 「野球もやってましたし、英語も生かしたい。ある時、よく行くバッティングセンターの店員さんが持ってきた雑誌にアメリカのバットの写真と、日本の連絡先が載ってたんです。『電話してみたら?』と言われて、私もすぐに連絡したところ、これまた飛び込みみたいな形で合格。ところがそこは問屋さんで、英語は全く関係なかった。アシックススポーツ販売(株)(現アシックス販売(株))というところで、主に九州のスポーツ店さんを回る仕事だったんです」

 ‐勘違いで入社したんですか?

 「はい。しかし、野球は好きでしたから、この仕事も楽しかった。そしてそこで働いているうちになぜか、シカゴに本社を置くウィルソン(ウィルソンジャパン(株)=現アメアスポーツジャパン(株))から声がかかるようになったんです」

 ‐引き抜き、という形ですか?

 「そうですね。何度か、断りましたよ。根っからの大阪人ですし、ウィルソンは東京ですから。しかしそれまでやったことのない用具の開発に携われる、英語を生かせる、そしてプロ野球選手の担当ができる、という部分に引かれまして。しかも、ヤクルトの池山選手(現1軍打撃コーチ)にも会える、というのが僕にとっては殺し文句になりました。2001年、秋のことです」

 ‐それまでとはまた違った業務ですよね。

 「もう、右も左も分かりません。ただ、プロのロッカールームで、契約選手の希望を聞き、他社と契約している選手にウィルソンを売り込む、ということです」

 ‐それまでのバイタリティーをうかがうと、村田さんならすんなり入っていけたのでは?

 「いいえ、大失敗というか、勘違いをしてまして、それをちゃんと教えてくれたのが池山さんだったんです」

 ‐勘違い?

 「当時、ヤクルトでウィルソンと契約していただいていたのが池山さんと山部さん(太=現ヤクルト編成部)の2人でした。さらにあるピッチャーとの契約を会社から言われていて、選手全員がいるロッカールームで、その投手にあいさつに行った。その瞬間です。池山さんに『山部がおるのに、なんで先に別のメーカーのとこに行くんだ!』と大声でどやしあげられたんです」

 ‐それは、身もすくみますね。

 「スーパースターですからね。でも、あえてみんながいる前で、わざと怒ってくれた。球界というか、社会で通すべき筋というものを私は勘違いしていて、それをただすと同時に、以後、ヤクルトでちゃんと仕事できるように守ってくれたんです」

 ‐それからは、仕事をやりやすくなった。

 「おかげさまで、いろんなところで顔を覚えて頂いたし、別メーカーとの契約選手ともお話できるようになった。本社に対しても、それまでなかったジャパンモデル発売を説得したり…」

 ‐それだけ仕事がうまくいっていても、やはり独立の夢は捨てられなかった。

 「そうです。サラリーマンの限界もありました。選手に対する100%のフォローはできない、プロが使うものと同じ道具をアマチュアに提供することもできません。いろんなジレンマが膨らむ一方で、何百というプロのグラブ制作に携わる中で、見えてくるものがありました」

 ‐その意味でも、池山さんという最高守備率を誇ったプロ中のプロのアドバイスは生きますね。

 「何しろ、皮のひもを通すポンチ穴の位置から、レースという縫い目の場所まで、希望とその理由を正確に説明できる人でしたから」

 ‐そして退職、ドナイヤ設立、となるわけですが、ブランド名以上に、コンセプトがユニークですね。プロにも無料提供しないし、特別仕様のものもない。

 「はい。過去の経験の集大成なので、店に置いてある定番商品が、すべて。この春、ネームと色だけはオーダーできるようにしましたが、素材や型はすべて、定番です」

 ‐既製品でプロを満足させられる秘密を教えていただけますか?

 「まず工場に置く“型”は3種類。これでどんな選手にも適合します。そして皮の質。これもすべて同じです。あと、経験を生かした部分で言うと、受球面の親指、小指のハラの部分にできるしわを、プロは気にして、慣らしの段階で伸ばすんですが、うちの商品はそのしわが、最初から絶対にできない設計になってます」

 ‐プロが苦労してなじませるところが、既製品でもうできている?

 「かなりの部分で、そうです」

 ‐それだけのものなら、大宣伝しても売れるでしょう?

 「質を落とすことはできませんから、大量生産は考えてないんです。硬式用グラブは、阿久根市(鹿児島県)の工場で、作っていただけるだけにしています」

 ‐販売拠点は?

 「アシックス販売時代に培った、九州方面のスポーツ店さんと、地元の関西、そして愛知に一部です。基本的にはすべて、初心を忘れないように、グラブをずた袋に放り込んで、店に飛び込みます。無名ですから門前払いも多いんですが、実物を見てもらえれば、気に入ってくれる人がいる。店に置いていただくのですが、私は『売ってくれ』ではなく『良さを伝えてください』と言ってます」

 ‐何か、村田さんの人生がずっとつながっている感じがします。

 「おっしゃるとおりです。工学部系の勉強、電力会社でのあり方。オーストラリアでの経験も、今、スポーツ店さんに飛び込むなんて、楽ですよ。日本語が通じますからね。そしてウィルソン時代…。自分の経験がすべて生きてますし、その時々に知り合った方々が今も、僕の大きな力になってくれてます」

 ‐ありがとうございました。

 村田裕信(むらた・ひろのぶ)1973年1月20日生まれ、東大阪市出身。大産大時代は2部野球部に所属、現関電プラント(株)から豪留学を経て現アシックス販売(株)、現アメアスポーツジャパン(株)などで働き、2010年9月、グラブメーカー「ドナイヤ」設立。家族は妻。

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