“打撃の神様”川上哲治さん93歳で逝く
プロ野球創成期を球界の第一人者として支え、監督として巨人を不滅の9年連続日本一に導いた川上哲治氏が28日午後4時58分、老衰のため東京都稲城市の病院で死去した。93歳。熊本県出身。戦前戦後を通じて「赤バット」で人気を博し、卓越した技術で「打撃の神様」とも称された。指揮官としても斬新な手法を採用するなど、輝かしい足跡で野球文化の定着に大きく貢献した。葬儀・告別式は近親者で行った。お別れの会は後日行われる予定。
古巣の巨人と、指揮官としての心得を伝授した星野監督率いる楽天が日本シリーズを戦っているまっただ中。その雌雄が決するのを見届ける前に、偉大な記録と記憶を残して川上氏は逝った。
家族によると、2009年11月に脳梗塞を患うまでは趣味のゴルフを楽しみ、今春まで車いすに頼ることもなかったという。しかし自宅居間で転倒、肋骨(ろっこつ)を折り、心臓病が悪化。懸命の治療でボール投げができるまで回復したが、その後老衰の症状が急速に進んだ。
1938年に巨人入団。20歳までに打撃主要部門のタイトルを全て手にした。練習中に「ボールが止まって見えた」という名言を残したスラッガー。「弾丸ライナー」の形容もスランプで勢いのある打球が激減し、野手と野手の間に落ちるテキサス安打が増えて「テキサスの哲」と称された時期も経験した。
兵役から復員した終戦直後、青バットの大下に対抗した「赤バットの川上」で背番号16は少年ファンの憧れだった。58年に引退し、61年に監督に就任すると、今度はそれまでの常識を覆す指揮官像をつくり上げる。
長嶋茂雄(現巨人終身名誉監督)、王貞治(現ソフトバンク会長)の主砲2人を擁して65年から空前絶後のV9を達成。一方でスコアラー制度の整備など常に先進的な組織体制を取り入れた。
監督1年目に敢行した米ベロビーチキャンプで「ドジャース戦法」を導入し、バントシフトなど細かなプレーの向上につなげた。400勝投手となる金田正一を国鉄から獲得し、その猛練習ぶりをONに学ばせた。「8時半の男」と言われた宮田征典(故人)を育て、球界にクローザーという概念を構築したのも川上氏だ。
「一切の妥協を許さなかった」(長嶋氏)「勝負に対する執念がすごかった」(王会長)という規律と猛練習、それに徹底した取材規制で「哲のカーテン」と批判もされた非情なまでの厳格さが、故鶴岡一人氏(南海)と並ぶ最多11度のリーグ優勝へと導いた。
74年で監督を退いた後も「球界のドン」としてネット裏から目を光らせ、巨人の監督人事など各方面に影響力を示した。昭和の日本の歩みを象徴するその存在。名選手で名監督だった川上氏は、野球一筋の人生だった。