大豊氏が急死 51歳…元阪神の主砲
阪神や中日で活躍した大豊泰昭(たいほう・やすあき、本名・陳大豊=ちん・たいほう)さんが18日午後10時41分、急性骨髄性白血病のため名古屋市内の病院で死去したことが19日、分かった。51歳。葬儀は近親者のみで行われる。喪主は妻・百合子(ゆりこ)さん。台湾出身で、94年には本塁打と打点の2冠にも輝いた。09年に急性骨髄性白血病を発病してから闘病を続けていたが、帰らぬ人となった。
夢を追い求めた日本で、51年の人生に幕が下ろされた。昨年12月下旬から名古屋市内で入院生活を送っていた大豊さんが、静かに世を去った。
病に苦しんだ。現役引退後、名古屋市内で中華料理の「大豊飯店」を営んでいたが、09年に急性骨髄性白血病が発覚した。一度は退院したが翌年に再発し、台湾で暮らす妹の骨髄移植を受けた。改善は見られたが、手足が紫色に腫れ、顔にあざができるなど後遺症に悩まされた。
11年に大豊飯店を閉店したものの、同年に岐阜県海津市に軽食の「大豊ちゃん」をオープン。自ら店に立つことも多かったが、一昨年に白血病が再々発した。体力の低下や歩行困難などの症状に苦しみ、昨年10月末日をもって治療に専念。自身のホームページで「みなさまに再会できるよう強い意志で病気と闘います」と記したが願いはかなわなかった。
苦労を積み重ねた野球人生だった。台湾で生まれ、東峰中では台湾大会で優勝。華興高時代には世界大会で優勝した。王貞治氏(現ソフトバンク球団会長)に憧れて日本行きを決意し、日本語を勉強して84年に名古屋商科大に入学。大学日本代表にも選ばれた。
卒業後、NPBの規定で日本人扱いとなるには5年の在日期間が必要だったため、1年間中日の球団職員として在籍。88年にドラフト2位で中日入りした。背番号は王氏のシーズン最多本塁打数と同じ「55」を付け、92年秋から王氏と同じ一本足打法に挑戦。94年には38本塁打、107打点で2冠に輝いた。
98年に関川、久慈との交換トレードで矢野と阪神に移籍。通算250本塁打と通算1000本安打も達成したが、在籍3年間はいずれも最下位。00年オフに自由契約を申し入れて中日に戻り、02年限りで現役を引退した。
引退後は中日のアジア地区担当スカウトなどを歴任した。昨年12月6日には、岐阜県海津市で講演し、少年野球の指導への情熱も語っていたというが、夢半ばで倒れ、帰らぬ人となった。