ダービー(東京優駿) |
3度目は最高の乾杯 | 2002/05/26・東京競馬場 | ||||||||||||||||||||||||||
来た。やはり来た。イエローの勝負服にシンプルな流星。13万人の大歓声を全身に浴び、大外から猛然とタニノギムレットがぶっ飛んで来た。
行く手を遮るものは何もない。きれいに続く直線を、ギムレットは猛然と追い込んでいく。これが夢にまで見た、ダービー・ビクトリーロード。内で粘るライバルたちをひとのみした瞬間、世代No.1を証明する最高のフィニッシュが待っていた。 歓喜のウイニングラン。満面の笑みで引き揚げてきた武豊は、両手を上げる派手なガッツポーズを披露。さらに投げキッスでスタンドの祝福に応えた。「マイルCでは挟まれましたからね。直線、外に導いたことに迷いはありませんでした」 前走と同じテツだけは踏まない。右ステッキを2発入れ、右手前にチェンジ。すぐさま左に持ち替えると、天才は執念の迫力追い。それに応え、急激な加速を決めたギムレット。人馬の常軌を超えた気迫は、他の17頭をはるかに上回っていた。 ダービートレーナーの称号を得た松田国師は、直立不動で記者会見に臨んだ。「目一杯の競馬をしてダービーに勝てた。うれしいです」 皐月賞―NHKマイルC―ダービーと続く、過酷なG13連戦。ギムレットの能力は断然と評価されながら、このローテに疑問を投げかける声が少なくなかった。だが「新聞でもいろいろ書かれましたからねえ」とまるで楽しむようにさらり。笑顔でかわしてしまうのだから恐れ入る。 昨年暮れ、きゅう舎の看板馬クロフネが故障、引退した。気落ちするスタッフを前に、こう励ましたという。「クロフネのような馬はまだいるからな。そう言ったんです。そしてタニノギムレットが出てきたんです」。素質馬がいる。つくり上げるスタッフがいる。確かな裏付けがあるのだ。開業7年目で頂点をつかんだ松田国きゅう舎の快進撃は、これからも止まりそうにない。 タニノギムレットはダービーの疲労を取り次第、函館競馬場に移動。そして浦河のBTC吉沢ステーブルに放牧に旅立つ。「秋はJCに出走させたい。海外ですか?谷水オーナーは将来、そう言ってくれるんじゃないですかね。あっ、これ新聞に書いておいてくださいね」。ちゃめっ気たっぷりに、最後はそう笑った。(藤村和彦) 誰もがなしえなかった 誰もが成し得なかった祭典で3度目の表彰式。ユタカはストレートに喜びを表した。「ホント、うれしい、とにかくうれしいですね。大先輩たちが成し遂げられなかった記録だから。まだ若いし、これから四つ、五つと伸ばしていきたい」。指を3本掲げる姿はどこか誇らしげだった。 天才をしてもなかなか手にできなかったのがダービー・ジョッキーの称号だった。それを10度目の挑戦となった平成10年、スペシャルウィークで勝ち取ると、翌11年はアドマイヤベガで11人目のダービー2勝ジョッキーに。それからわずか3年、5年で3勝というすさまじいペースで、またひとつ新たな勲章を付け加えた。 2月24日に落馬、骨盤骨折などで全治3〜6カ月と診断が下されたときには、ダービーの騎乗は絶望的と思われた。それが「天皇賞、ダービーに乗りたい。大きな舞台でまた活躍するんだ」と、驚異の回復力と懸命なリハビリを経て、わずか55日後でカムバック。勝負師としての純粋な欲求が栄光をつかみ、悪夢の出来事をすっかり過去のものへと風化させてしまった。 挑戦は今後も続く。「現状に満足することなく、常に高いレベルを追い求めたい」―。ダービー制覇の余韻に浸ることなく、27日には再び機上の人となり、これからダービー・シーズンを迎える欧州での騎乗が待っている。 「ダービーを勝ったことで(自分自身に)弾みがつく。これからもフランスをベースに世界中を駆け回ります」。次回の帰国予定は第3回阪神の1、2週目(宝塚記念はジャングルポケットに騎乗)。ムチ一つで世界を渡る第一人者は、どこまでもどん欲だ。(堀江浩二) |
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