浜村淳氏 親交深かった米朝さん悼む

 他界した落語家で人間国宝の桂米朝さん(享年89)と半世紀以上にわたって親交が深かった、映画評論家でパーソナリティーの浜村淳氏(80)が20日、若き時代から師と仰ぎ、芸談を語り合いながら飲み明かした米朝さんとの日々をなつかしみ、別れを惜しんだ。

 ◇  ◇

 「淳ちゃん、落語の世界に来んか?上方落語が衰えて、噺家になる人間が少ないんや」

 昭和35年ごろ、私が出演してましたジャズ喫茶に米朝師匠が訪ねて来られ、こんなお誘いを頂いたんです。

 大まじめに「なんとか落語界を盛り上げたいんや」と。私のラジオ番組などを聞いて興味を持っていただいたようですが、当時の私は、ジャズや映画の解説が本業。落語との両立は難しく丁重にお断りしました。ですが、私が弟子入りしたらどんな名前に?「米朝の弟子で、桂“もうちょう”でどや」。「そんなんイヤです」。2人で笑い合いました。

 「なんぞ芸事で聞きたいことや分からんことがあったら、いつでも遊びにおいで」。

 これでご縁が深まり、しょっちゅう一緒に飲みに行くようになりました。

 行けば、ずうっと楽しい芸談。「落語はな、常識外れのアホなことを言うたり漫画みたいなもんと思われがちやけど、そら間違いや。聞いている人がああ自分もそんな一面あるわ、あんなヤツおるでと納得するリアリティーがないといかん」「芸人はな、一生枯れたらいかん。死ぬ間際まで脂ぎった芸をみせなあかん」。弟子でもない私にこんこんと。私にとっては全てが勉強でした。

 たまに女性のオモロイ話が出てきて、そんなことあったんですか?と思たら、他人の話で。勉強する、研究するのが大好きな人。学者のような一面がありました。「遅なったから、うちの家に泊まりにおいで」。ご自宅に泊めていただき、飲み直しても、また芸談でした。

 当時、亡くなられた弟子の枝雀さん、あの頃は小米さんでしたが、住み込まれていて、夜更けに顔中血だらけで帰って来られたことがありました。師匠が驚くと「近道しようと、庭の有刺鉄線くぐり抜けて帰ってきましてん」と。その場面からが落語みたいな世界。

 そんな枝雀さんを師匠は「『天神山』なんかやらしたら、わしより上手や」と得意げで、かわいがって、自分の全てを譲るのは彼だという感じでしたね。枝雀さんが亡くなられた時は、相当に気落ちしておられました。

 性格は結構せっかちな方で、テレビの密着取材で1日一緒に歩いたこともありましたが、進行役の私やカメラマンを追い抜いて、ひとりで歩いていかれたこともありました。

 昨年、奥様の中川絹子さんを亡くされた時も、力を落とされたことでしょう。かつて「あの嫁はん、わしが博打で負けたから嫁に来よってん」とおっしゃってたのも思い出します。聞けば、OSK日本歌劇団の女優時代に、師匠に「米朝さん、あんたが負けたら嫁にもろて」と花札勝負を挑まれたとか。

 “桂もうちょう”としましては、10年ほど前に師匠の「天狗裁き」を拝見した際に、1作ぐらい師匠に稽古をつけていただき、落語をやってみたくなっていました。師匠がお元気なうちに…と思っていたのですが、かなわず心残りです。(パーソナリティー)

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