高梨沙羅 “開拓者”山田コーチと二人三脚で悲願達成
「平昌五輪・スキージャンプ女子ノーマルヒル」(12日、アルペンシア・ジャンプセンター)
女子ノーマルヒル(ヒルサイズ=HS109メートル)が行われ、日本のエース、高梨沙羅(21)=クラレ=が銅メダルを手にした。1回目、2回目とも103・5メートルを飛んだ。ジャンプ勢は14年ソチ五輪の男子ラージヒルで葛西紀明(45)=土屋ホーム=が2位、団体が3位になっており、2大会連続の表彰台。女子では初のメダルで、通算12個目となった。
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空を飛ぶことに憧れを抱くのは、男だけではない。それでもほんの20年前まで、女子ジャンプという種目はなかった。国際スキー連盟が1999年の女子だけのインターコンチネンタル杯を開催したのが初の国際大会。女子の世界選手権ができたのは9年前の09年からだ。それまでは男子の大会に女子が参加する形をとっていた。
「ジャンプは男の競技」「まるでサーカス」「女がジャンプなんか飛んだら、子供が産めなくなる」-。
女子ジャンプが誕生する前、そんな偏見と迷信がはびこっている時代を切り開き、日本の女子ジャンプの歴史を切り開いていったのが、13年から沙羅のコーチを務める山田いずみさんだった。山田さんが日本女子で初めてノーマルヒルを飛んだのは1992年のこと。男子の試合に交ざるのにも、大会主催者に自ら交渉。女子の更衣室はなく、着替えはいつもトイレだった。
その存在は沙羅にとって憧れだった。幼い頃、山田さんにお姫様抱っこされている写真は、今も実家の寝室に飾ってある。山田さんはソチ五輪での正式種目入りが決定する2年前の09年に引退。引退式で花束を渡してくれたのは沙羅だった。沙羅は常に「今、自分たちが五輪を目指せるのは、先輩たちのおかげ。だからこそ恩返ししたい」と口にしてきた。
メダルを逃したソチ五輪の時、山田さんは「メダルを見せてあげられなくてごめんなさい」と涙を流す沙羅を抱きしめ、同じく涙を流しながら言った。
「本当によく頑張った。次の五輪でこの悔しさを晴らそう。きょうがスタートだよ」-。
あの日から4年。山田さんとの二人三脚で、昨季までW杯歴代最多の53勝を積み上げた。沙羅は今季直前の昨年11月、6歳になる山田さんの息子(6)にこんな言葉を送っている。「いつもお母さんを取っていっちゃってごめんね」。山田さんも息子に言った。「我慢してもらっている分、絶対に沙羅は頑張るからね」-。
日本女子ジャンプの歴史そのものといえる2人の歩みが、輝くメダルとして結実した。