没後20年いま明かす津田恒実さん秘話

 日本シリーズの出場こそかなわなかったが、今年の広島カープは16年ぶりのAクラスとなりCSにも初出場。セントラル・リーグを大いに盛り上げた。駆け出し記者として昭和60年代、カープ担当をしていた私にとって、カープの快進撃はあの時代の記憶をよみがえらせるには十分だった。

 まだ、指導者や球団関係者として在籍している人間が多いため、悪行?の数々はあまり公表できないが、当時は選手とよく遊んだ。おおらかな時代だった。遠征先では食事にいった後、カラオケで夜中まで騒いでいたことも数えきれないほどあったし、オフはオフで朝はゴルフ、夜は飲み会という日々を何年も過ごした。特にピッチャー陣とはよくつるませてもらった。現巨人の投手総合コーチである川口和久さんやカープのフロントにいる川端順さんは同じ年だったし、金石昭人さん、白武佳久さん、津田恒実さんは一つ年下。それ以外にも同年代の選手が多く、その付き合いは、まさに学生の時代の延長のようなノリだった。 

 その中にひとりに「寛平」というニックネームを持つ名選手がいる。いや、いた。「炎のストッパー」と呼ばれた守護神・故津田恒実さんのことである。ファンの間では「ツネゴン」というニックネームの方が有名で、「寛平」というニックネームはあまり知られていないかもしれない。だが、実際は吉本のお笑いタレントである間寛平さんに似た風貌であることからいつしか名付けられ、瞬く間にチーム内で広まっていった。遠征の際、同じ新幹線の車両に乗る間寛平さんを見つけた達川光男さんが、津田さんを横に連れていき「ほんま、よう似とるわ」と爆笑したエピソードもある。

 おしゃべりな私と無口な彼。だが、津田さんとはなぜか馬が合った。当時、津田さんは私のことを「阿修羅」と呼んでいた。私がラガーマンとして活躍した後、プロレスラーになった阿修羅・原さんの風貌に似ていたためで、いつしか「寛平」「阿修羅」と呼び合う仲になっていた。広島市民球場の一塁側のロッカー前で肩を組んで密談する姿に、達川さんから「お前ら、出来の悪い漫才コンビか!」とからかわれたこともある。

 前置きが長くなったが、そんな「寛平」との思い出をいくつか紹介したい。彼は確か、昭和62年のオフに晃代さん(旧姓近藤)と挙式したはずだが、結婚式の直前にこんなことを言ってきたと記憶している。「阿修羅、お祝いに5万円包んでくれよな。頼むわ」。

 当時、私の給料は手取りで15万円なかったぐらいだったか。式に出席することにはなっていたが、5万円を包む財政状況などにはなかった。「奮発して3万円にしようかと思っているのだけど…」と渋ると、こんな追い打ちの言葉をかけてきた。「5万円にしてくれよ。阿修羅が結婚するときは10万円にするから。頼むわ」。

 実際、私が挙式した際には10万円の入った祝儀袋を手渡してくれた。こんな倍返しならうれしい限りだが、いまだに彼の「俺にもいろいろあるのよ。仲のいい奴の祝儀が少ないと、相手の家に悪いような気がして」という言葉と、はにかんだ表情が忘れられない。

 こんなこともあった。当時の古葉竹識監督はタバコがあまり好きではなく、選手がタバコを吸うことにあまりいい顔をしなかった。ところが津田さんは、試合前に一服し、試合に入っていきたいタイプの選手だった。そこで、彼なりに一計を案じたのか、広島市民球場の関係者トイレに隠れてタバコを吸うことを提案してきた。大用のトイレの水洗タンクの上に、タバコを隠しておき、ホームチームの練習後に「阿修羅、ちょっと話があるんだよ」「相談したいことが…」と私を呼び出すのが、ホームゲームでの儀式になった。

 ちょっとでも約束に時間に遅れると、若手選手が「津田さんが大事な用がありますって」って呼びに来る。そして「阿修羅、火」という言葉を皮切りに、大の男が狭いトイレに二人で入り、タバコを吹かす。まさに臭い仲で、まるで出来の悪い高校生のような姿だった。私の「俺は記者だから堂々とタバコが吸えるのだけど…」という突っ込みに、毎回、毎回「いいじゃろ、暇じゃろ」「友達じゃろ」という返事が返ってくるのが常だった。

 また、試合前の練習後、グラウンドに「阿修羅、相談があるんじゃ」と呼び出されたこともあった。彼は深刻な表情で「まぁ、座れや」と口火を切ると、こんな言葉をつないできた。「こうやるとバイトの女の子が一生懸命働いている姿がよう見えるじゃろ。阿修羅はどの子がタイプじゃ?わしが紹介しちゃるけ」と人懐っこい笑顔を浮かべていた。結局、だれも紹介してくれなかったが。

 だいたい彼の「話があるのじゃ」という時に限ってまともな話はない。こんな話もあった。確か血行障害から復活し、カムバック賞に輝いた年だから86年のオフだったと記憶している。広島の繁華街・流川に当時あった美人姉妹のやっているスナックで飲んでいたときの話である。例のごとく「話があるんじゃ」と呼び出され、その店で飲み始めたのだが、突然、「カムバック賞の記念にパネルを作ってくれんかのぉ」とおねだりをされた。

 「パネルの1枚や2枚お安い御用」と胸をたたいたまではよかった。が、津田さんの要求は「ホームランを打たれて『ウソ』といいながら、口を開けて振り返っているのにしてくれや」と予想外のものだった。吹き出しながら「普通、三振を取ったりしてガッツポーズしているとことか、投げてるとこだろ」と返答をすると、彼の返事が振るっていた。「その写真をみて、気合を入れなおすんじゃ。打たれたことを忘れちゃいかん」と。ピッチング同様、まっすぐで生真面目な「寛平」らしいといえばらしいかもしれない。今まで、スポーツ選手に何枚もパネルを手渡してきたが、こんな要求をされたのは後にも先にも、このとき一回きりだ。安請け合いをしたが、通常、カメラマンはホームランを打った選手に焦点を合わせている。打たれたピッチャーにピントを合わせていることなどレアケースだろう。なんとか写真部さんに頼み込み、口を開けて振り向くシーンを探してもらったが、先輩カメラマンからは「変な頼みを聞いてくるな」と、こっぴどくお叱りを受けた。あのパネルはどうなったのだろうか?今は、知るすべもないが…。

 そんな津田さんがこの世を去ったのは、93年7月20日のことだった。当時は、巨人担当だったため、病に倒れてからは人づてに病状を聞くしかなかった。一時は回復し、カープの福岡遠征の際に、かつてのチームメートを訪ねたという話も聞いていた。再会を楽しみにしていただけに、そのニュースを聞いたときには言葉がでなかった。

 没後、20年になる。私の実家には、彼の現役当時に担当記者何人かと選手何人で出演した中国放送の対抗歌合戦のビデオテープが眠っている。確か、日南キャンプのときのカメラマンに頼んで撮ってもらった2ショットの写真もどこかにあるはずである。ところで、「寛平」、あのとき俺たちが吸っていたタバコは、なんだったっけ。ふと、そんなことを思い出した。

(デイリースポーツ・今野良彦)

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