ホープ遠藤 2場所連続負け越しは吉兆
10回も満員御礼が出て大いに盛り上がった大相撲夏場所(東京・両国国技館)。東前頭4枚目の遠藤(追手風部屋)は初めてまげを結って本場所に臨んだが、結果は7勝8敗と惜しくも1点の負け越し。自己最高位の東前頭筆頭に躍進して、初の上位総当たりだった春場所でも6勝9敗と負け越しており、入門以来、2場所連続負け越しも初めての苦い経験となった。
幕下を2場所、十両を1場所で突破するなど、超スピード出世で番付を駆け上がってきたホープも、プロの壁にぶつかったのでないかという見方も一部にはある。しかし、大相撲の歴史では過去に2場所連続負け越しから偉業を成し遂げた力士がいる。
まず1人目はあの双葉山である。1932(昭和7)年に勃発(ぼっぱつ)した春秋園事件による幕内力士の大量離脱によって、まだ十両に昇進して3場所目だった双葉山は繰り上がりで入幕。その後も体力不足からなかなか番付が上がらず、3年間も平幕にとどまった。ようやく小結に上がった35年1月は4勝6敗1分。前頭筆頭に下がった同年5月も4勝7敗に終わり、上位力士の厚い壁にはね返されていた。
当時は年2場所(1、5月のみ)の時代。前頭3枚目に後退した1936(昭和11)年1月、初日に新海に敗れたあと4連勝、6日目に横綱玉錦に敗れて2敗目を喫した。これで当時の第一人者である玉錦には初顔合わせから6戦全敗である。ところが、この次の日から双葉山は負けなくなった。7日目に瓊ノ浦(たまのうら)に勝ち、この場所を9勝2敗で終えると、翌5月場所は新関脇で11戦全勝で初優勝。9日目には玉錦に初めて勝っている。
ここからはまさに無敗街道が続く。37年1月、大関に昇進して11戦全勝、続く5月も13戦全勝で文句なしで横綱に昇進する。新横綱で迎えた38年1月、次の5月はいずれも13戦全勝。驚異の5場所連続全勝優勝で連勝記録は66まで伸びている。1939(昭和14)年1月、4日目に安芸ノ海に外掛けで敗れるまで空前絶後の69連勝を達成。平幕時代からスタートした連勝が、ここまで続くと予想することはおそらく誰も出来なかっただろう。
もう1人は貴花田(のちの横綱貴乃花)だ。91(平成3)年3月、初日から11連勝の快進撃で12勝3敗の好成績を収め敢闘、技能賞をダブル受賞。この時18歳7カ月で、もちろん史上最年少での三賞受賞である。貴花田フィーバーが起こると、5月には横綱千代の富士を破って史上最年少金星を獲得。7月には新小結で11勝を挙げ、一気に大関に駆け上がりそうな勢いだった。
ところが新関脇で迎えた9月は7勝8敗、続く11月も7勝8敗とまさかの連続負け越し。快進撃は完全に止まったかにみえた。だが92年1月、前頭2枚目に後退した貴花田は3日目に曙に敗れた1敗だけで、優勝戦線のトップを走り続け、とうとう19歳5カ月での幕内優勝を果たすのである。いまだかつて達成されていない(というよりこれから先もないだろう)10代でのVという快挙をやってのけたのだ。
遠藤の場合も結果こそ出ていないが、上位力士との実力差は徐々に縮まってきているのは間違いない。立ち合いで圧力、馬力負けする課題は、すぐに克服するのは難しいかもしれないが、真っ向勝負に徹して一度も変化しない姿勢は必ず先々につながるはず。4日目に横綱鶴竜を破って初金星を獲得したように、立ち合いからの攻めの早さ、厳しさには目を見張るものがあったし、相手の逆転技に反応する対応力の高さなど、潜在能力の高さを存分にアピールしてみせた。
何よりも13日目に負け越しが決まったあとも、決して気落ちをせずに残り2日間を勝ったことは評価できる。15日間を戦い終えた直後、「上位は甘くない。稽古しなくちゃいけないと思いました」と下を向くことなく巻き返しを期した。負け越しを1点にとどめたことで、おそらく番付も前頭5枚目あたりになることが予想される。上位総当たりになる地位ではないものの、優勝争いに絡むような活躍をすれば、終盤戦でも横綱・大関との対戦が組まれる可能性は十分。2場所連続負け越しの悔しさをバネにして、名古屋場所(7月13日初日、愛知県体育館)では“遠藤フィーバー”が巻き起こるほどの大活躍を期待したい。
(デイリースポーツ・北島稔大)