90歳甲子園マンモススタンドの誕生秘話
2014年8月26日
日本国内に資料は存在せず、アメリカから雑誌や書籍を取り寄せることから始まった。辞書を引きながら、英文と格闘し、野田氏は「日本一大きい野球場」の設計図を書いていった。ちなみに現在の甲子園最上段は外野席が52段、アルプス席は63段である。
1924年3月10日に着工。「夏の(中等学校野球)大会に間に合わせろ」との厳命を受け、約5カ月で完成にこぎつけた。単純比較はできないが、シーズンオフを利用した2007年からの甲子園リニューアル工事が10年3月までかかったことを思えば、驚くほどの突貫工事であったことが分かる。
建設途中に視察に訪れた球界関係者から「こんなにスタンドが大きいと客席からボールが見えないだろう」と苦情も出たという。そのたびに設計責任者の野田氏が説得した。
8月13日、完成したばかりの甲子園で第10回全国中等学校野球選手権大会が開幕した。初日、第2日と観客の入りは悪かった。「こんなバカでかい球場をつくってどうするんだ」という声が聞こえた。週末を迎えた大会第3日。地元勢の出場も加わり、午前10時には満員札止めとなった。この日の感激を野田氏は生涯忘れることがなかったという。
1974年12月には“聖地”設計の功績が認められ、野球殿堂入りを果たした。その野田氏は私の母校の大先輩にあたる。これらの話は私が高校入学時に配られた「学校人脈 姫路中・姫路西高」という本の中で幾多の卒業生の逸話とともに紹介されていた。入学直後に野球部に入部した私は先輩の偉業を初めて知ると同時に卒業後の今も誇りに思っている。
野田氏の後輩はただ一度、1936年の選抜大会で甲子園の土を踏んでいる。昨夏は県内屈指の公立進学校である彦根東高が滋賀大会、丸亀高は香川大会を制して甲子園出場を果たした。今夏は青森大会で青森高、愛媛大会でも松山東高という文武両道を目指す県立の進学校が地方大会決勝で涙をのんだ。
兵庫大会162校の頂点に立つのは簡単ではない。しかし、松井氏の母校である星稜が九回に0‐8から大逆転した今夏の石川大会決勝を例に出すまでもなく、野球は最後の最後まで何が起きるか分からないスポーツでもある。
いつの日か甲子園を設計した野田氏の後輩たちが再び聖地でプレーし、松井氏が「別格」と評した60段超のアルプス席を在校生と卒業生で埋める日を夢見ている。
(デイリースポーツ・斉藤章平)