幻となりかけた上甲監督と安楽の関係
今秋ドラフトの目玉候補の1人、済美・安楽智大投手(3年)が22日、プロ志望届を提出した。安楽の恩師、上甲正典監督は今月2日に急逝。67歳の若さだった。1200人が参列した4日の告別式、安楽は出棺時に号泣した。師弟の間で築かれた信頼関係の深さをうかがい知ることのできるシーンだった。
安楽は弔辞の中で「監督さんのためにプロ野球で活躍します。それが僕ができる最高の恩返しだと思います」と“上甲スマイル”の遺影を前にプロ志望を表明していた。10月23日のドラフト会議まで1カ月、亡き師に誓った夢の実現への第一歩を踏み出した。
甲子園優勝2回、通算25勝15敗の実績は紛れもなく高校野球界の大監督だ。母校の宇和島東と新興校の済美を全国区の強豪に押し上げた上甲監督は名将の1人である。
私は2010年3月から12年12月まで、四国駐在記者として4県の高校野球を主に取材してきた。その間の済美と言えば、県で上位進出は果たすものの甲子園には届かない“苦難の時期”だった。
そのうち、08年夏を最後に全国切符を逃し続けていた上甲監督の退任説を耳にするようになった。当時64歳。学校職員の立場にあった同監督だが、一般の会社と同様に節目の65歳で退職するというのが一つの根拠になっていた。
11年夏の愛媛大会直前だった。済美を退任後、上甲監督が次に赴任する校名まで具体的に言われるようになっていた。私は大会前最後の練習試合の日、済美グラウンドをアポなしで訪れた。試合取材もそこそこにタイミングを見計らって、噂の真偽を確かめるべく上甲監督を直撃した。
退任説が出回っていることは本人も承知していた。真っ向から否定することもなかった。当時の学校側との話し合いがスムーズに進んでいなかったことを暗に認め、翌年以降の続投が確定していない事実を明かした。
上甲監督は済美で指揮を執り続ける意欲満々だった。だが、「私のことが決まっていないので、うちで預かりたい中学3年生のご両親ともきっちり話ができない」と悩みを打ち明けられた。
その「中学3年生」こそ、安楽のことだった。上甲監督は安楽の素材にほれ込み、将来は間違いなくプロに進むであろう大器とともに済美復活を期していたのだった。
硬式の松山クラブボーイズでプレーしていた道後中時代の安楽は愛媛県内はもちろん、県外や四国外にも知られた存在だった。複数の強豪校が食指を動かしたが、安楽もまた上甲監督の指導を受けたいと早くから心に決めていた。
もし、上甲監督が済美を離れていたら、安楽との師弟関係は幻となっていた可能性も十分あった。上甲監督を熱心に誘っていたと言われているのは甲子園出場経験もある九州の強豪校。安楽も上甲監督を追いかけて、その学校に進んでいたかもしれない。
結果的に上甲監督は済美のユニホームを着続けた。12年4月、安楽も済美に進学。入学直後から練習試合で頭角を現し、夏には背番号「18」ながら主戦格の働きを見せた。優勝した今治西に準決勝で敗れはしたが、“スーパー1年生”と騒がれ、愛媛県内には「済美に安楽あり」を強烈に印象づけた。
新チームからはエースナンバーを背負い、愛媛1位校として臨んだ秋季四国大会で4強。13年春のセンバツで鮮烈な全国デビューを飾り、同年夏もチームを甲子園に導いた活躍は周知のとおりだ。
厳しい指導で知られた上甲監督の精神を体現するのはオリックス・平井正史、元ロッテ・橋本将、ヤクルト・岩村明憲、広島・福井優也らプロに進んだ者だけではない。
今春から宇和島東を指揮する若藤太監督、10年夏に宇和島東を11年ぶり甲子園に導き現在は大洲を率いる土居浩二監督、10年春に愛媛県大会を制した野村・長滝剛監督らも宇和島東卒業の教え子だ。済美で上甲監督を補佐していた同校1期生の田坂僚馬コーチも将来の監督候補と目されている。
名物監督の死はあまりにも早過ぎたが“上甲イズム”はプロアマで活躍する多くの教え子たちが確実に引き継いでいく。特に今後は“最後のまな弟子”とも呼べる安楽がプロで活躍することによって、野球ファンの記憶の中に上甲監督は永遠に生き続ける。
(デイリースポーツ・斉藤章平)