安岡力也Jr.を誘った大物プロレスラー
2年前に他界した俳優・安岡力也さん(享年64)の長男で俳優の力斗(28)が、12月4日からデイリースポーツで父の素顔を描くコラムを毎週木曜に連載している。今年10月に著書「ホタテのお父さん」(東京キララ社)を出版した流れでの連載となるが、このウェブ版では独自のエピソードをお届けしたい。
力斗は1986年3月2日、力也さんと2人目の妻との間に長男として生まれた。父は自身の頭文字に「北斗の拳」の「斗」を息子に付けた。力也さんは70年前後にキックボクサーとしてリングに上がったが、力斗はプロレスラーを目指し、高校卒業後からアニマル浜口ジムに通った。
ある日、力斗の元に電話がかかってきた。「ゼロワンの橋本です」-。日本マット界に一時代を築いたプロレスラー・橋本真也さんだった。90年代、武藤敬司、蝶野正洋との“闘魂三銃士”として新日本プロレスのトップに君臨し、01年に新団体・ゼロワンを旗揚げした“破壊王”だ。
力斗は当時を振り返る。「心の中で『え~っ、橋本さん!』と思いました。『力斗君はプロレスやりたいのか?うちに来い』と言って下さり、僕は『やります』と即答していました。父は橋本さん、高山善廣さんとも仲が良かった」。力也さんの幅広い交友関係から生まれた、突然の“スカウト”だった。
父とは米プロレス団体・WWEの話題で盛り上がっていた。「格闘技よりエンターテインメント志向だった」という力斗は、橋本さんの言葉に心を動かされた。一方で知人を通じてDDTの高木三四郎から「もし、良かったら」と丁重な誘いもあったという。安岡力也Jr.としての話題性も、マット界では魅力に感じられたのだろう。
だが、結局は断念した。「僕はタッパ(身長)が171センチしかなくて、プロレスラーとしてはジュニア。空中を飛ぶ技がメーンになる。ハヤブサさんの事故があった頃だから父も心配していた」。理由の一つは体格面の不安。さらに、決定打は父の大病だった。
「肝嚢胞(のうほう)の水を取って体が戻った後、ギランバレー症候群になって昏睡状態に。僕はプロレスラーになりたくてアニマルさんの道場で練習させてもらっていましたが、アルバイトだし、まともな収入がないわけですよ。入院費も父の貯金でまかなっていた。何もできない自分がものすごく悔しくて病室の扉とかを『チクショー!』ってたたいた。『神様がいるなら出てこいよ。殴ってやるよ。オヤジの代わりに俺が病院のベッドに寝るから!』って。誰に怒りをぶつけていいか分からなかった」
プロレスをあきらめ、心機一転、父を支えてくれる人の元、千葉・木更津で建設現場の作業員として働き出した。10年には父に、自身の肝臓を3分の2も提供。42時間に及ぶ大手術だった。その2年後の4月8日に力也さんは亡くなった。三回忌を迎えた今年、力斗は役者の道を踏み出し、初めて本を出した。
そのきっかけは、米国の刑務所に12年服役した体験を元に「チカーノになった日本人」など3部作を同じ出版社(東京キララ社)から世に出したKEIさんの存在が大きい。リハビリ中の力也さんが病床で著書を読んで感激し、やがて見舞いに来た本人と意気投合。親密な交流へとつながる経緯は「ホタテのお父さん」に記されている。三回忌を終え、力斗とも信頼関係を築いていたKEIさんに出版を後押しされた。
「病気や肝移植は“物語”を作ろうと思ってやったわけじゃない。僕たちはこういう親子でした…とか、果たして面白いのかと最初は思った。武勇伝を集めた方がいいんじゃないかと。そんな時にKEIさんが『テレビの力也さんしか知らない人に、力斗君が見たお父さんの姿を書いてみた方がいいんじゃないか』と言って下さり、その流れで書きました。ガンになったり、ギランバレーになったり、全部で10年間、人前に出られなかったオヤジの、その間のことを世間の人は知らないわけで。その中身がこの本の中にある。不思議なもので、本を出す時から、監督さんや役者さんから声がかかるようになった。オヤジが会わせてくれたのかなって思います」
デイリースポーツの11日掲載回では、映画「ブラック・レイン」に隠された力也さんと盟友・松田優作さんの絆を描く。約10年前、力斗に“電話オファー”という形で手を差し伸べた橋本さんは05年7月11日、くしくも、その松田さんと同じ40歳で早世した。力斗は父やその仲間である各界の大先輩たちの思いを背に、芸能界という新たなリングに挑む。
(デイリースポーツ・北村泰介)