ノーベル賞中村教授 故郷で怒りの熱弁
青色発光ダイオード(LED)の開発で2014年にノーベル物理学賞を受賞した米カリフォルニア大サンタバーバラ校の中村修二教授(60)が、受賞後初めて故郷・愛媛県に帰郷。2日に県総合科学博物館(新居浜市)で受賞後初の講演を行った。
研究を続ける原動力は「アンガー(怒り)」。ノーベル賞決定直後の会見でそう語った中村氏は、やはり怒っていた。
講演の冒頭。その鋭い舌鋒は報道陣に向けられる。中村氏が気に入らないのは、授賞理由についての報道内容だ。壇上に設けられた大型スクリーンに某新聞社の切り抜き紙面を映し出し、そこに書かれてある記事を読み上げた。
「赤崎氏と天野氏は青色LEDを開発。中村氏は量産化に成功」
他の新聞にも同様の記述があることを示すと、中村氏は声のトーンを一段上げて言い放った。
「私が『量産化に成功』っておかしいでしょう!日本は産官学一体でむちゃくちゃ!マスコミもむちゃくちゃ!」。
今回の青色LED開発によるノーベル物理学賞は、赤崎勇氏と天野浩氏、そして中村氏の3人が共同で受賞した。この3人は2つの陣営に分かれ、激しい開発競争を繰り広げた間柄だ。
中村氏によると、名古屋大で師弟関係にあった赤崎氏と天野氏は、豊田合成(愛知県)と連携して1993年10月に青色LEDの製品化を発表。一方、日亜化学工業(徳島県)に勤務していた中村氏はその1カ月後、従来の100倍の光度を持つ青色LEDを実用製品化させた。
はたして中村氏は「量産化に成功」しただけなのか。「赤崎さんと天野さんが作った青色LEDは、蛍の光よりも暗くて使い物にならなかった。今回のノーベル賞の授賞対象は『高輝度の青色LED』なんです。高輝度と呼べるものはウチ(日亜化学)が開発し、製品化したんです!」。自身の業績こそ「開発者」に値すると強く主張した。
中村氏が作り上げた青色LEDをもとに、LEDの白色照明やフルカラー化が実現した。世界に“光革命”をもたらした中村氏はしかし、99年に日亜化学を退社。米国に渡り大学教授に就任した。その後、特許をめぐって同社と激しい法廷闘争を繰り広げることになる。
会社のため、売れる製品を作るために研究に明け暮れたサラリーマン時代。その20年間を振り返り、中村氏は皮肉たっぷりにささやく。
「製品が売れなかったら責任は私に来る。売れたら上司が持っていく。それが日本のサラリーマンの宿命。永遠のサラリーマンにはならない方がいいですよ」。歯に衣着せぬ“中村節”に最初はドキッとさせられたが、次第にそれが痛快に感じられてくる。600人が集まった会場にも笑いが絶えなかった。
泥沼の争いに発展したとはいえ、古巣・日亜化学への恩義は忘れていない。創業者の故小川信雄氏や同僚たちを思い出し「素晴らしいベンチャーだった。金は出すけど口は出さない。研究者にとって理想の環境だった。感謝したい」と、照れくさそうな笑みを浮かべて約1時間の熱弁をしめくくった。
講演後には「世界で一番帰りたい場所は愛媛。帰ってくるとほっとする」と話した中村氏。つかの間の故郷滞在で英気を養い、再び怒りのエネルギーを燃え上がらせて新たな開発に挑むのだろう。(デイリースポーツ・浜村博文)