松山東奮闘記~センバツに吹いた東の風
記者の母校・松山東が28日、2回戦で甲子園を去った。初戦の二松学舎大付、続く東海大四戦いずれも、82年ぶりの勇姿を一目見ようと詰めかけたOBたちが身につけた、スクールカラーのグリーンは、6000人収容のアルプススタンドには収まりきらず、外野席やネット裏にまで進出していた。
30年以上も前に、同じユニホームを着ていた1人として、客席から見た後輩たちが甲子園球場を駆け巡る姿には、胸が震えた。
センバツ出場が決まって以降の、選んでいただいた高野連の方々や社内外のメディア、友人、知人からの数え切れない「おめでとう」。何の貢献もないただの野球部OBに、こんな誇らしい思いをさせてくれた後輩には感謝しかない。
しかし、だ。翻ってグラウンド外に目を移したとき、そんな周囲の「おめでとう」のムードや、『久しぶりに出場した公立の進学校』というだけで、これほどの圧倒的な応援が集まるのだろうか、という思いにとらわれた。何が突き動かしたのか。
後輩の活躍に劣らず感激したのは、在校生は当然としても、野球部に所属していなかったOB、OGたちも『自分のことのように』、ではなく『自分のこととして』喜んでいる姿だ。
母校愛。在校生、卒業生を通じて皆、本当に東高が好きだ。相当な進学校だとは思うが、記者のように学業を完全におろそかにしていた者も、居心地が良く、楽しかった思い出ばかりだ。
それを醸し出すのが、130年を超えるこの学校の気質だろう。
いつもは松山の、のんびりした気候に身を委ねて過ごす。しかし何か楽しげなことがある、事件が起きるなどすれば、「こりゃ、大ごとじゃ!」と、生徒たちは一斉に目を覚まし、瞬時に役割分担が完了し、面白いように各ミッションが遂行される。
たぶん漱石先生から今の教師陣に至るまで、時折「いらっ」とさせられながらもほほえましく感じただろう松山中~松山東に通底する団結、集中。
例えば、関係者名簿の洗い直しからチケットやバスに同窓会場の手配まで、卒業して何十年もたつ各年代のOBたちも、あっという間に完遂。母校で培った気質を遺憾なく発揮した。
そして、在校生たち。各所で報道された通り、100メートル×60メートル程度のグラウンドに、サッカー部、ラグビー部、ハンド部そして野球部がひしめく。ボートなど他部も含め全国出場を狙う強さを秘める。
野球部だけが頑張っているのではない。野球部だけが「勉強せえよ」と言われる訳でも、野球部だけ狭い思いをしているのでもない。それをしっかり理解しているからこそ、工夫に工夫を重ねた練習も選手らは当然と受け止める。チーム内外の課題難題を完璧にマネジメントした堀内監督以下、部員たちは一つになった。
だから野球のユニホームを着た東高生たちは、その一員として“くだんの気質”を爆発させることができた。集中力勝負のセンバツという大舞台なら、なおさらだ。
亀岡-米田のバッテリーが柱となり、他の選手も自身の役割遂行に集中した。
選手だけではない。1回戦の前夜、ベンチ入りはかなわなかったがデータ班として連日、深夜まで“戦った”向井は、完成させた分析データをチームに届けると、精根尽き果てて自室へたどり着けず、宿舎の玄関で寝ていたそうだ。
女子マネジャーたちは「緊張している選手、眠そうな選手がいたら、お尻に“モミジ”を作ってやりますよ!」とこちらも戦いの列に加わった。
プロが注目するような選手が多数いる高校。そうなるための努力や周囲の支援や環境整備などは本当に大変で、そこで夢をかなえようとする生徒たちは、高校野球の華として欠かせない。
一方、強烈な母校愛で何かあれば瞬時に団結、スタンド、グラウンド区別なく一丸で戦う姿も、甲子園は肯定してくれたように感じた。
付け焼き刃で、子規をググッてみた。東高(松山中)野球部ができて3年後、1895年の句、らしい。
「初東風の烏帽子わつかに動く哉」
『東』の吹かせた春風が、ほんのちょっとだけでも高校野球の長い歴史に彩を添えたとするなら、大先輩もうれしいことだろう。
(デイリースポーツ・西下 純=83年松山東卒)