篠原信一の3億円伝説と豪快な取材拒否
今年に入って柔道家・篠原信一(42)のタレントとしてのブレークを見ているうちに、7月も下旬となった。2012年のちょうど7月27日に開幕したロンドン五輪を思い出す。柔道日本男子代表監督だった3年前と現在の姿を比べると隔世の感はあるが、彼のタレント性はその立場ゆえに封印されていたわけで、タガが外れた今になって一気に噴出しているのだろう。取材から得た2つのエピソードを通して成功の要因を検証してみたい。
ロンドン五輪では男子7階級で金メダルがゼロに終わった。1964年東京五輪での柔道採用後、前代未聞の屈辱である。篠原監督は「これは私の責任」と言いつつ、当初は続投を示唆。全柔連の幹部と共に批判の矢面に立った。筆者も現地の五輪取材班として敗因分析の緊急連載に携わったが、篠原監督の憎めない天然さを知るが故に、書きながら心苦しさを覚えたものだ。
その“憎めなさ”の一つは、ロンドン五輪前に東京都内で催された、とある宴席でのやりとりに起因する。
篠原が現役引退した03年といえば、大みそかの夜に地上波3局が格闘技興行の中継を紅白歌合戦にぶつけるという、日本の“格闘技バブル”が絶頂期にあった時代。そこで飛び出した報道が「篠原参戦、契約金3億円」だった。当時、格闘技担当記者として複数の関係者に当たったが、裏は取れず、その報道もフェードアウト。ファンやメディアの「篠原待望論」を代弁する“確信犯的な誤報”だったのだと解釈した。
そうは解釈したものの、実際のところはどうだったのか-。もう“時効”であるし、酒席で当人が目の前にいる好機を逃す手はない。頃合いを見計らって真偽を尋ねた。篠原は「そういう話はなかったです」と即答。だが、そこで終わらないのが、篠原の篠原たるゆえん。見事な“返し技”で一本取られた。
「でも…、もしね、あの時、3億円、ほんまにもらえるんやったら、自分は(プロ格闘技に)行ってますよ!マジで。ガハハハハ」。自分をネタに相手を笑わせるサービス精神。この「3億円もらえるならやる」発言は今年1月放送の日本テレビ系「ナカイの窓」でも披露されていたが、篠原の“芸人魂”は代表監督という立場にあった3年前から既に顕在化していたのだ。
もう一つ、20世紀の終わりに時計の針を戻そう。00年シドニー五輪100キロ超級代表の座を懸けた全日本選手権に向け、拠点の天理大で練習中の篠原に電話で直接、取材を申し込んだ。その瞬間、それまで黙って聞いていた篠原は開口一番「嫌です!」と言い放ち、こちらはイスから転げ落ちそうになった。豪快な取材拒否。それはそれで爽快だった。
とはいえ、仕事の上では困る。橋渡しをしてくださった彼の高校時代の恩師に相談した。速攻で篠原から電話が返ってきた。「取材、よろしくお願いします!」と180度のどんでん返し。師や先輩を立てる気配り(本人は「先生が怖いから」と言うのだが)、自分の思いに固執せず空気を読んで軌道修正できる柔軟性を感じた。
話をロンドンに戻そう。当初、代表監督としての任期は16年リオデジャネイロ五輪までの「2期8年」が既定路線。だから惨敗直後も続投に前向きだったが、その後、井上康生監督に後を託した。続投していれば今の姿はない。先述の「空気を読んで軌道修正する柔軟さ」が好転した。バラエティー番組でも「(芸能界の)先輩を立てる気配り」「サービス精神」で好感度が高い。自画自賛も自虐も、自分をふかんしてネタにできる客観性があるから嫌みがない。
あのロンドンでは“地獄”を見た。失うものは何もない、需要があるうちは何でもやってやるという、腹のくくり具合や覚悟をもって、ストッパーを外した規格外のタレント性が爆発しているのだ。
(デイリースポーツ・北村泰介)