【野球】台湾球界に溶け込んだサムライ

 一色優(いっしき・まさる)、日本で知る人は少ないかもしれない。だが、台湾球界では知られた名前だ。台湾プロ野球の名門チーム、統一ライオンズでコンディショニングコーチを務める。

 彼から来季も契約したと連絡が入ったのは11月中旬のことだった。彼の地のストーブリーグは日本よりも少し遅い。12月に新監督が決まることも少なくないという。ただ、一色の契約完了を聞くまでは少し心配していた。というのも実は昨年オフ、2年契約を断っていたからだ。

 日本球界では一部の元スター選手を除いて、コーチや監督が複数年契約を断ることはほぼない。生活を安定させるため、長期的な視野で指導をするために、多くの指導者たちは複数年契約を望む。彼は違った。

 「空気感と言うんですかね。自分がそこにいるべきなのか。チームに必要とされているのか。選手たちと接していれば自然と伝わってくるものなんです。1年後、どうなっているのか分からないのに2年契約は意味がないと思って」

 正論ではあるが、球団から有利な条件を提示されながら、断る人など見たことはなかった。そのまっすぐな精神は、ここに至るまでの野球人生にあるのだと思う。

 とにかく子どものころから野球が好きだったという。高校時代にも野球部に所属していたが、有名選手というわけではなかった。大学進学、就職。だれもが通る道を通ってきたが、営業マンとして働き始めたとき、気づいた。

 「自分のやりたいことはこれじゃない。野球に携わる仕事をしてみたい」

 思い立ったら行動は早かった。仕事を辞め、スカウトを目指すことにした。サンフランシスコ・ジャイアンツに手紙を書いた。「自分は選手を見られる」と。返事は来なかった。当然だろう、なんの実績もない日本人からの手紙にいちいち返事を書くほど暇ではない。それでも一色は飛行機に乗りサンフランシスコに降り立っていた。知り合いもいない。なんのツテもない。でも運は持っていた。

 ある日系の新聞社を訪ねると、親切な日本人がいた。何をしに来たのかと問われ、「野球の仕事をしに来た」と答えた。ならば、彼女と話をすればいいと、ジャイアンツ傘下の1Aサンノゼの女性GMリンダを紹介された。リンダは「仕事はないけど、野球を見たいなら球場に来ればいい」と言ってくれた。翌日から試合のある日は球場に通い詰めた。約2カ月。相変わらず仕事はなかった。帰国を決意した。

 あきらめたわけではなかった。日本でアルバイトをしながら、トレーナーの専門学校に通いチャンスをうかがっていた。思いは通じる。あるとき、知り合いから南海でプレーしたことのある李来発を紹介された。翌年から和信ホエールズの監督就任が決まっていた。

 何ができると問われ「選手が見られる。マッサージもできる」と答えた。翌年の春のキャンプに、阪神を解雇された嶋尾康史とともに呼ばれることになった。テストだった。1カ月、必死に働いた。キャンプ打ち上げの日、嶋尾は不合格。一色は李来発から「給料は出せないけど、アシスタントトレーナーで残らないか」と言われた。無給で台湾に残ることにした。

 収入はない。アルバイトでためた貯金80万円だけが頼り。寮に入り、語学学校で勉強しながらチームに付いた。やれることは何でもやった。球拾い、用具係、マッサージ。無給で一生懸命働く姿はチームメートにも伝わるものがあった。若手選手の陳連宏は毎日のように「飯食いに行こう」と誘ってくれた。オフにはコーチとして正式契約を勝ち取っていた。月額2万元。日本円にして約6万円だった。

 コーチになっても相変わらず何でもやった。コンディショニングコーチの肩書ながら一塁コーチャーも務めた。台湾のヒーローである元中日の郭源治が加入したときは、先発前夜は夜中でも必ず部屋に呼ばれてマッサージした。験担ぎだった。先発11連勝の偉業に貢献した。チームが統一に変わっても姿勢は変わらない。今の監督は若いころ毎晩のように一緒に食事をした陳連宏だ。

 「こうして仕事をしてみて、野球の見方は変わりました。きれい事だけじゃない。でも、選手の考えていることも分かりました」

 海の向こう台湾に真摯(しんし)に野球と向き合う日本人がいた。一色優、44歳。今も夢はスカウトになることだと言う。来季、台湾での20度目のシーズンを迎える。(デイリースポーツ・達野淳司)

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