【サッカー】五輪日本代表DF岩波が託された思い
7月1日、リオデジャネイロ五輪を戦うサッカー男子日本代表が発表された。選ばれたのはオーバーエージ(OA)枠の3人を含む18人。手倉森監督の「託す側と託される側」という言葉を借りるなら、J1神戸のDF岩波拓也(22)は、多くの思いを託された側の人間だ。
ジュニアユースから神戸の下部組織で育った生え抜きで、クラブ在籍選手では初の五輪代表。「何か一つでも神戸に恩返ししたいと思ったときに、五輪代表入りは使命と感じていたし、自分が1人目になりたいと思っていた」と話すように、大きな期待を背負っていることは自覚している。
世代別日本代表の常連だった岩波。5月のトゥーロン国際大会パラグアイ戦の試合中に、左膝内側側副靱帯(じんたい)を損傷し、全治6週間と診断されたことで、一時は選出が危ぶまれた。「五輪を見れば間に合うと思ったけど、発表が7月1日だから、厳しいと感じていた」
必死のリハビリで回復。選ばれたから言えるのかもしれないが、ケガをしたから見えたこともあったという。「一番感じたのは、こないだ新潟の早川が離脱したけど、グラウンドにも顔を出せない選手がいるということ」
「早川」とは、今季筑波大からJ1新潟に加入したDF早川史哉(22)のことだ。自らその名前を口にしたのは、彼の離脱があまりにも衝撃的だったからだろう。
6月13日、J1新潟は早川が「急性白血病」と診断されたと発表した。同じ94年生まれで、世代別の日本代表で共にプレー。学年でいうと岩波は1年後輩にあたるが、公私ともに仲が良かった。ベスト8入りしたU-17W杯では、早川が3得点。躍進の中心にいた。
「俺らが16とか17歳の頃から大人な考えで、先を行っている感じだった」。将来的には指導者を志し、大学に進学した彼の背中を見て「差を感じたこともあった」という。しかし、だからこそ「僕はサッカーしかない」とも思えた。病気の発表後は、岩波の呼びかけで募金活動も行った。
13日の横浜M戦(2-3、ニッパツ)でピッチに戻り、早速90分フル出場。「プレーできる状況に持って行けたのはやっぱりうれしい。でもケガで行けない選手や、仲がいいけど来てない選手もいる。そういう選手のためにもいい大会にしたい」。早川のように、これまでの世代別代表で共にプレーした選手や、手倉森監督の下で一緒に汗を流した選手のためにできるのは、全力でプレーすること。この世代の“代表”であるという意識は人一倍強い。
「ここでケガして立ち止まった分、もう一回進みたい」と岩波は言う。育ってきたクラブの思い、共に戦ってきた仲間の思い-。託された多くの思いを胸に、リオのピッチに立つ岩波の活躍を祈りたい。
(デイリースポーツ・國島紗希)