長谷川穂積引退 “ボクシングの虫”にも勝ち王者のままリングを去る
ボクシングのWBC世界スーパーバンタム級王者・長谷川穂積(35)=真正=が9日、神戸市内で会見し、現役引退を表明した。
ボクサーはみんな虫を飼っている。亡き名トレーナー、エディ・タウンゼントさんの口癖でもあった「ボクシングの虫」だ。この虫に一度刺されれば終わり。その毒が体をグルグルと回ると、ボクサーはグローブをつるせなくなる。
虫は、金や名誉に必ずしもつながらない。黒星が白星を上回るグリーンボーイでも、どんなダメージを負ってもいい、死んでもいいとすら思う者がいる。安いファイトマネーで過酷な減量を乗り越え、逃げ場のない狭いリングで敵と対峙(たいじ)する。めった打ちを食らってキャンバスにのされても、その高揚感を忘れられないのだ。
長谷川はクレバーなボクサーだ。その虫といずれ戦わなければならないと知っていた。9月16日の世界挑戦前、長谷川はこれを最後に引退すると決めた。しかし、9回TKO勝ちの劇的勝利後、再び頭を悩ませた。「強い選手とやれる権利を得たのに、それを放棄していいものか」。ボクシングの虫が騒いだ。
金や名誉が理由ではない。あと1試合限定で試合をする選択肢もあった。「引退興行」と銘打って防衛戦を組めば、挑戦者だった今回の試合より高額のファイトマネーが手に入る。ファンの期待も感じていた。
しかし、その道を選ばなかったのは、2つの大きな責任感からではないか。一つは父として。長男大翔君(13)と長女穂乃さん(11)への思いを「子供たちが見た最後の試合がどんなものかは、すごく大切。ずっと心に残るものだから」と話したことがあった。
もう一つは、拳闘史に残る王者として。今月16日で36歳になる。昨年12月のノンタイトル戦では相手のアッパーにぐらついた。「前はあんなアッパーではぐらつかなかった。自分では認めていなかったけど、それに気づいた」と冷静に分析した。「もらわない戦い方をすればいい」と話したのも本音だろう。実際、それができるのが長谷川だ。しかし、自分が追い求めてきた「強さ」とは何か。燃え立つ相手ももういない。答えは、輝いたままのベルトを返すことだった。
5年半ぶりの王座奪回。長谷川はロープを背負って劣勢になりながら、鬼の形相で前に進んだ。「行くな!」と叫ぶファンの声が響く中で。そして、勝った。あの時試合を支配していたのは、長谷川の中にいたボクシングの虫だったのではないか。9回のあの数十秒の激戦。虫はあがき、そして毒を出し切った。
王者は王者のままリングを去る。かつてこれほど明るい引退会見があっただろうか。「もうおなかいっぱいなんですよね」。長谷川は、あのやっかいなボクシングの虫に勝ったのだ。