恩師3人が語る桜のエース柿谷曜一朗
欧州遠征中のサッカー日本代表。C大阪FW柿谷曜一朗(23)は9月のグアテマラ戦、ガーナ戦に続き、4カ月連続でメンバーに名を連ねた。ザック・ジャパンの1トップに定着しつつある桜のエース。その成長に携わった3人の恩師、小学時代を指導した高橋正則氏(41)=現C大阪スクールコーチ、C大阪U‐15監督だった風巻和生氏(48)=C大阪アカデミーコーチ(興国高サッカー部派遣)、J2徳島時代の監督・美濃部直彦氏(48)=現JFL・長野パルセイロ監督=に、当時の柿谷について聞いた。日本代表は11日(日本時間12日未明)、セルビア代表との国際親善試合に臨む。
【小学校時代】高橋正則氏「能力持て余していた」
柿谷の日本代表入りに「そうなるとずっと思っていました。心配な時期もありましたけど、正直驚きはないです」と語るのは、小学時代の柿谷を指導したC大阪スクールコーチの高橋正則氏だ。当時の印象を「練習で鬼ごっこをやっても敵がいない、捕まらない。猫が人間に見つかって逃げていく時のような感じ。速くて柔らかかった」と振り返る。
意外にもボール扱いは「普通くらい」だったという。周囲の子がリフティングを100回、200回とこなす中、柿谷は10回、20回がやっと。「取りあえず同じ高さで20回できたらOKにしよう。それができたら絶対に100回できるからと2人で折り合いをつけていました」。高橋氏は懐かしそうに笑う。
もちろん、ピッチでは非凡な才能を発揮した。「あの子はノープレッシャーだとできないんです。研ぎ澄まされないといけない」。高橋氏が驚いたシーンがあった。パスをもらうと、普通の子は一度トラップしてフェイントをかける。だが、柿谷は相手の手前でボールを触り、ワンタッチでスピンをかけて抜き去った。「決まり事やみんながやっているフェイントはしたくなかったんでしょう。人と違ったことがしたい、目立ちたいというのはすごくありました」
そんな目立ちたがり屋の柿谷少年は小学生のころ、一時期GKに凝っていた。一人だけユニホームが違って格好いい、母が磐田の元日本代表GK川口能活のファンだったというのが理由だという。練習場に向かうバスの中から両手にグローブを着けてくるほどののめり込みようで、試合で大差がつくとGKで出場したこともあった。
「GKとしてもそれなりの選手になっていたかも」と高橋氏。だがある日、面白くないと言いだしたという。「ボールが全然来ないんやもん」。チームが強く、シュートがなかなか飛んで来なかった。「ボールに触れて自分が輝きたいんでしょうね。本当に能力を持て余していました」
柿谷は高橋氏について「めっちゃうまかったし、みんなの憧れやった」と目を輝かせる。今でも連絡を取り合う2人。「電話すると、いつも寝てるんですよ」と高橋氏は苦笑いする。柿谷が7月の東アジア杯でA代表に初選出された際には「とりあえず選ばれたんで」と、少し照れながら報告があったという。
「(C大阪で)8番をつけてコンスタントに点を取っていけば、東アジア杯に必ず呼ばれるから。そこでまた結果出すと、ほんまにブラジル(W杯)に行けるかも」。シーズン開幕前、2人で笑いながら話していたことが、一つずつ現実となっている。ブラジルのピッチも、遠い夢の話ではない。「あの子には人を引きつける何かがある。早く世界に見せたいんですよ」。高橋氏ははやる気持ちを抑え切れないように語った。
【中学時代】風巻和生氏「クラスでもやんちゃだった」
「サッカーが大好きでやんちゃな子。いつもニコニコしながら、明けても暮れてもボール蹴っている“サッカー小僧”でした」。C大阪U‐15で監督を務めていた風巻和生氏の下に“飛び級”でやって来たのが、当時小学6年の柿谷だった。
多感な中学時代に指導した風巻氏は“飛び級”の難しさを指摘する。「曜一朗により高い負荷がかかるようにとカテゴリーアップしていったが、結果的にいつも年齢が一番下で、効果と弊害というかアンバランスさが生まれてしまった」
常に上の学年に交じってプレーしてきた柿谷は、兄弟でいえば“末っ子”の扱いを受けてきた。「ボールの片付けなどもキビキビやるのは上の子で、曜一朗はちょっとやって終わってしまう。責任を取らなくていい、“お兄ちゃんたち”が取ってくれるという環境に置いてしまった。育成スタッフ全員で週1回集まって練習の報告をしたりする中で、良くも悪くも必ず名前が挙がる選手でした。“飛び級”が逆効果になってしまっていると」。風巻氏は当時の葛藤を振り返る。
ピッチから離れても柿谷はやんちゃだった。風巻氏らスタッフが学校生活の様子を聞くため柿谷の通う中学に足を運ぶと、担任教師からいきなり苦情をぶつけられた。「授業でじっとしていないとか、クラスでもやんちゃなわけですよ。『サッカーで何とかしてくれ』と言われたので、みんなで彼を育てて見守っていく、大人が携わっていくようにしたいとお願いしました」
自由奔放で型にはまらない。プレーそのままの学校生活を送っていた柿谷だったが、学校にとっては扱いにくい生徒だったかもしれない。「それが彼の才能で、そこを見てあげられる大人がいるかどうか。現在の彼がもしも成功しているというのであれば、あの時それを許してくれた大人がたくさんいたから。今思えば楽しい思い出ですね」と風巻氏は笑った。
柿谷は今季から「8番」という重い責任を背負った。「優勝したい」と公言するかつての教え子に、風巻氏は成長を実感する。「口に出すということは責任を取る覚悟があるということ。僕らが時間をかけてアプローチしてきたことが、今ちょっとずつ形になっているのかなとうれしく思う」。責任から逃れていた幼い姿はもうない。
【J2徳島時代】美濃部直彦氏、効き目抜群だった“注射”
2009年6月、柿谷はJ2徳島に期限付き移籍する。遅刻を繰り返したことによる事実上の“放出”。当時徳島はJ2で3年連続最下位と低迷しており、まさにどん底からの再スタートとなった。チームを率いていたのは、就任2年目の美濃部直彦氏だった。
「そんなんやったら辞めた方がええんちゃうか」「もうピッチから出ろ」。柿谷が自分を抑え切れずプレーへの不満などを態度に表した時、美濃部氏は“注射”と称し、容赦ない言葉を投げ掛けた。
「サッカーだからうまくいかないことはたくさんある。自分がうまくいかない時は周りが助けてくれるし、周りがうまくいかない時は自分が助けてあげないといけない。一人でやっているわけじゃないということは何度も言いました」
小さな“注射”は何本も打った。紅白戦で柿谷の出来が良くないと、「曜一朗は俺にとって“鉄板”の選手じゃないな」とチクリ。すると「頑張ります」と目の色を変える。“効き目”は十分だった。
もちろん厳しく接するだけではなかった。「彼の意見、感覚もあるし、それは聞かないといけない。会話はすごく大事にしました。彼のプレー自体は大好きやし、ファーストタッチは僕もファン。そういうことは本人にも言いましたし使い分けですね」
柿谷は「クソッと思う時もあったけど、ミノさんとはいろんなことを伝え合った」と振り返る。指揮官との対話を繰り返し、柿谷は変わっていった。紅白戦後のミーティングの輪に積極的に加わり、意見もするようになった。徳島に移籍して3季目の11年には副キャプテンを任され、最終節までJ1昇格を争った。
C大阪に戻った柿谷は、プレーヤーとしての階段を一気に駆け上がっていく。「プレッシャーや周囲の期待と向き合えるようになった。試合に出たい、プレーしたいというのが彼の思いだったけど、それは自分のための感覚。自分中心のプレーだけじゃなく、チームプレーもあるんだよということを伝えられた」。柿谷の成長に目を細める美濃部氏。「でも、まだまだですけどね」。笑顔でそう付け加えることを忘れなかった。