【W杯特集5】体も心も軸ぶれない大迫
【SAMURAIの横顔5・大迫勇也】
ザックジャパンの1トップ争いにあって、有力な先発候補が大迫勇也(23)=1860ミュンヘン=だ。昨季、自身最多となる19得点を挙げた鹿島を飛び出し、今年1月にドイツ2部へ移籍。さらなる成長を目指す若きストライカーは、鹿児島城西高時代から思わぬ分野で才能を発揮していた。同校の小久保悟監督(46)に当時のエピソードと、ドイツ移籍の舞台裏を聞いた。
何げない思いつきが発端だった。部員を呼び寄せた小久保監督は土俵を書いて、こう言い渡した。「引いたり、投げたりはなし。押して相手を出すこと」。教え子の体の強さを見るための即席相撲大会だった。「毎日やっていたわけじゃないんですよ。たまたま。大迫が3年生の夏場ぐらいですかね」(監督)。大迫の相手は大きなGKが務めたが、相手にならなかった。
驚いた監督が次の取組相手に指名したのは、20代後半のコーチだった。「体重は80キロよりあったと思います。ドラム缶のような体をしたやつですよ」。“鹿児島城西場所”結びの一番は、お互いがっぷり四つに組んだまま全く動かなかった。
1トップを柿谷曜一朗(C大阪)、豊田陽平(鳥栖)らと争う大迫の大きな武器が、この軸の強さだ。重圧をかけてくる相手を背負った状態から振り向きざまに放つシュートは得意パターンの一つ。その下地が、高校時代には出来上がっていたことになる。
横綱級の体の強さは、厳しいトレーニングと旺盛な食欲でつくられた。近所の焼き肉店では食べ放題のご飯をかき込み、練習後には補食で用意されたソフトボールよりもひと回り大きいおにぎりを頬張る。180センチ以上の身長ながら、体重は70キロほどのやせマッチョ体形からは想像できない大食漢だった。
大迫は常々、先を見て行動してきた。鹿児島城西高系列の鹿児島育英館中に進学したのは、サッカー部が新設だったため。先輩がいないことで1年生から試合に出られる環境があると考えた。体をつくってきたのも、世界で戦う力を10代のうちから養う必要があると感じていたから。ドイツ移籍もその延長線上の決断だ。「W杯に出るだけじゃなく、活躍するためにドイツに行くことにしました」。今年1月に移籍を決意した際にそう宣言したが、周囲からは反対されていた。
今年の1月3日、大迫はドイツ移籍発表の直前に、鹿児島城西高の初蹴りに参加した。実はこのとき、小久保監督はどうしたらドイツ行きを思いとどまらせることができるか頭を悩ませていた。U‐17W杯、ロンドン五輪と2回、世界大会のメンバー落ちを経験してきたため、周囲は「今度こそ」の思いが強かった。W杯メンバーに確実に入るためには、慣れ親しんだ鹿島で実績を積んだ方がいい。大迫の両親からも「残るように話して下さい」と懇願されていた。
だが、大迫はぶれなかった。
大迫「どうすればいいですかね」
監督「親御さんは何と言ってるんだ」
大迫「残れと言っています」
監督「鹿島で活躍して選ばれるのを待った方がいい」
大迫「でも…。日本でやっていても厳しい中ではできません」
まるで用意していたかのような鋭い反論に、小久保監督は決意の固さを悟った。
1860ミュンヘンのチーム事情も「1トップの選手が30代なんで(自分が)出られそうです。1部の下の方に行って出られないかもしれない、というよりも、2部の真ん中の方が出られます」と入念に調べ上げていた。鹿島の先輩のMF小笠原満男やDF内田篤人(シャルケ)にも相談して、チャンスがあるなら行くべきだという助言も受けていた。
小久保監督は説得を諦めた。
恩師に漏らした移籍の目的の一つに、「フィジカル面でドイツ人の方が強いということを払しょくしたい」というものがある。ドイツでの日本人評は技術があり、敏しょう性がある、というもの。最前線での激しい肉弾戦にも耐えられる大迫にすれば、強い日本人もいることを示す、またとない機会だった。
ドイツデビュー戦となった2月10日のデュッセルドルフ戦では、ペナルティーエリア内で首に手をかけられ倒される激しいプレーも経験した。想定通りの環境で、後半18分には相手GKがこぼしたボールに詰めて蹴り込みドイツ初ゴール。きっちり結果を残した。
ドイツでは14試合6得点3アシストと実力を証明した。常に自分の判断で環境を選び、壁を打ち破ってきた。W杯で活躍する準備はできている。