藤浪を陰で支える元甲子園スターの存在
元気がなくなった阪神の中で背番号「19」の存在が輝きを増している。スーパールーキー藤浪晋太郎である。10月12日に開幕するクライマックスシリーズ・ファーストステージでは、大事な第1戦先発起用の声が高まっている。
長身から繰り出す150キロ台の速球、そして多彩な変化球。投手として必要な要素を多く身につけている。しかし、忘れてならないのは、シーズン最多本塁打記録を更新しているヤクルト・バレンティンをはじめ、ずらりと並ぶプロの強打者と対戦しても後れを取らない精神力である。走者を背負っても簡単には崩れない。むしろ、ピンチの場面で勝負強さが際立っている。
昨年、大阪桐蔭のエースとして甲子園では春夏連覇の偉業を達成している。負ければその場で終わるトーナメント戦。それを勝ち抜いたのは力だけでなくハートの強さも持ち合わせていたからである。
しかし、高校野球の舞台で発揮した力が、そのままプロの世界で通じるものなのだろうか。そこには何か仕掛けが必要である。
藤浪に常に寄り添っている背番号「19」の先輩がその仕掛け人である。
それは中西清起投手コーチである。現在は「71」をつけているが、1983年に阪神へ入団した当時は「19」を背負っていた。
藤浪は1994年生まれ。中西コーチは1962年生まれ。この二人、背番号以外にも共通する点がある。
高知商時代、中西は3年春のセンバツ大会で優勝投手に輝いている。藤浪は「浪速のダルビッシュ」と呼ばれた。中西は、当時人気が爆発していた野球漫画の主人公と同姓であったことから「球道くん」というニックネームをもらった甲子園のヒーローだった。
中西の勲章は1985年、球団初の日本一に輝いたシーズン、ストッパーとしてチームを支えたことである。リーグ優勝を決めた試合では胴上げ投手になった。
活躍の源は、苦しい場面でも臆さずに打者に向かう精神力であった。当時の指揮官、吉田義男監督は「中西がビビったのを見たのはたった一度ですわ」と語っていた。たった1度というのは妙にリアルである。「ホームから見ていて、内側から燃えていくのが伝わってくる」バッテリーを組んだ木戸克彦はマウンド上の中西をそう表現していた。
球速は平均130キロ台で、最速140キロ。藤浪は中学3年のときにすでにそれを超える142キロの速球を投げていた。
けっして恵まれたわけではないボールを武器に、「先輩19番」はプロの修羅場を生き抜いてきた。
現役時代の中西から、こんなことを聞いたことがある。
「投手にとってピンチの場面、投手にはプレッシャーがかかり、打者が有利に見えるでしょう。でも、打者の方も投手と同じで、打たなければ、とプレッシャーを感じています。立場は同じ。あとはどっちの気持ち強いかですよね。気持ちが勝っていれば真中へ投げても打たれません」
実際、中西が抑えきった場面を何度も見せてもらった。
プロに入った藤浪は自分の力に自信を持っていても、同時に、本当に通用するのだろうか、という不安も抱いていたはずである。
中西の経験と実績が、おそらくその藤浪の影の部分を霧が晴れるように消していったのだろう。藤浪が今季4勝目から5勝目を挙げるのに、1カ月以上かかったが、そんなときでも中西コーチは優しい言葉をかけるどころか「しっかりしろ!」と叱咤し続けた。
すでにセ・リーグの高校出新人としては1967年の江夏豊(阪神)以来46年ぶりに2桁勝利に到達している藤浪は、次の目標を規定投球回数に狙いを定めている。残り試合を考えれば微妙な数字だが、中継ぎに回ってでも達成したい数字だ。ただ、これも中西コーチに言わせれば「防御率のタイトルが狙える位置にいるなら中継ぎも考える」。
マウンドやベンチで言葉を交わす藤浪と中西コーチを見ていると、年の差や、コーチとルーキーという壁を感じさせない空気がある。高校野球の優勝投手で、同じ背番号をつけて阪神に入った、先輩と後輩。軽妙な性格の先輩19番は長身の後輩19番を見上げながら、自分の経験や考えを伝えている。その一言一言が藤浪の成長に欠かせない栄養剤となっている。
(デイリースポーツ・田中学)