甲子園を沸かせた2人の名将の絆と流儀

 盟友、師弟関係-。そんな言葉で語り継がれる2人がいる。箕島・尾藤公元監督(享年68)と星稜・山下智茂元監督(70)。引退後に甲子園塾を立ち上げた2人だが、互いにユニホームを着ている間は、野球についての話を交わさなかった。山下監督の口から語られた尾藤公監督との真の関係とは-。そこには勝負の世界にいる者にしか分からない流儀があった。

 春の暖かい日差しが差し込む中、そこには2人の緩やかな時間が流れていた。山下氏がたばこをふかし、尾藤氏が眠る墓前にそっと置いた。そして「腹一杯、飲んでくださいよ」と、墓石に大好きだったビールをなみなみとかけ流した。

 今年3月。センバツが開幕する直前に山下氏は和歌山県内の尾藤氏が眠る墓前で手を合わせていた。大学中退から社会人生活を経て、たたき上げで箕島を率いた名将と、教師として実直な指導で星稜を強豪校に育て上げたもう1人の名将。公立校の監督と私立校の監督、指導者としての環境も違う。そんな2人を“兄弟”のように引き合わせたのは、史上最高の試合と称された一戦だった。

 第61回全国高校野球選手権大会の3回戦、延長18回の末に箕島が星稜を破った試合。伝説的なカードは後年、再再々試合まで行われ、10年には甲子園で当時のメンバーが集結して開催された。病床の尾藤氏も車いすで駆けつけ、山下氏が「頑張ってください」と声をかけると、尾藤氏は涙ぐみつつ“最後”の采配を振った。

 盟友、師弟関係-。そんな言葉で語られてきた2人の絆。伝説的な試合の翌年から定期的に練習試合が組まれ、交流はスタートした。だが当時の関係は晩年とやや違っていたと山下氏は明かす。

 「意外と野球の話はしなかったんです。どちらかと言えば、僕の悩みを一方的に聞いてもらっていた感じ」。食事の席でも野球談議に花は咲かなかった。「チームをどうつくっていったらいいですか?」。そんな問いかけにも尾藤氏は、はぐらかし続けたという。

 技術論、指導者論を投げかけても答えは返ってこなかった。話題に上るのは「食べ物の話とかだったね。気晴らしをしてもらう感じ」と野球とは一切、関係のない話ばかりだった。そんな尾藤氏の姿を見て、山下氏はこうさとったという。

 「やっぱり勝負の世界に生きている方でしたから、そう自分の考えを戦う相手に言ったりはしない。思えば横浜の渡辺元智さん、東邦の阪口慶三さん(現・大垣日大監督)とも仲は良かったけど、負けてたまるかと思っていた。みんなが、勝負の世界を見ていたからだと思うんです」

 ユニホームを着ている間は自分で考えろ-。そんなメッセージがあったのかもしれない。少なくとも山下氏は尾藤氏の姿から、勝負師の心構えを教えられた。2人は決して一線は越えない、絶妙のバランス関係で成り立っていた。だが94年、その転機は突如として訪れた。

 箕島-星稜の練習試合前、「腰が痛いからノックしてくれんか」。尾藤氏から依頼を受けた山下氏は、快諾すると同時に「ウチの生徒に話をしてください」と逆提案し、実現した。初めて互いの教え子が交わった瞬間、勝負師としての関係は終わった。尾藤氏から引退をほのめかされたのはその直後。「本当に仲良くなったのは引退してからでしたよ」と、2人は高校野球の発展へ手を携えて歩みを進めることになる。

 「僕たちの失敗を繰り返さないように。失敗を人前で話すのはやっぱり恥ずかしいんですよ。でもそれを知った指導者が新しい高校野球を、甲子園をつくってほしいなと」と山下氏。手を携えてつくった若手指導者を育成する場所は、08年に「甲子園塾」という形となって実現した。

 ただ山下氏は現状に警鐘を鳴らす。「今の若い監督はすぐ連絡を取ってお互いのことを話す。生徒を育てるためには土を作って、耕して、水をあげて。そのやり方を生徒のために自分で一生懸命考えないと」。尾藤氏の姿から学んだ“勝負師の魂”-。それはきっと、戦友によって後世に受け継がれていく。

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