親友でライバル…上甲監督、馬淵監督
昨年9月に胆管がんで他界した済美・上甲正典前監督(享年67)と、明徳義塾・馬淵史郎監督(59)。池田を率いた故蔦文也元監督(享年77)と入れ替わるように台頭した2人の名物監督は、固い友情で結ばれた同郷の親友であり、ライバルだった。「攻めの上甲」と「守りの馬淵」。四国を舞台に異なるスタイルで切磋琢磨(せっさたくま)を続け、ともに甲子園で頂点に立った。
聖地を目指して155人の部員が汗を流す明徳義塾グラウンド。選手たちの動きを見守りながら、馬淵監督が寂しげな表情を浮かべてつぶやいた。
「上甲さんがおらんなって、張り合いがないんよ…」
昨年9月2日に急逝した上甲氏。年齢は8つ離れていたが、2人は「兄弟以上の仲」という親友であり、ライバルだった。上甲氏は愛媛県三間町(現宇和島市)の、馬淵監督は八幡浜市の離島・大島の出身。「同じ南予(愛媛南部)の人間。キャラが似ていて、ウマが合った」という。
上甲氏が宇和島東を率いてセンバツ初出場初優勝を果たしたのが1988年。その2年後の90年に馬淵監督が明徳義塾の指揮官に就任すると、2人はすぐに意気投合した。
バスで互いのグラウンドを行き来し、練習試合で力試し。その関係は01年に上甲氏が済美に移ってからも続いた。「1年に10試合前後はやった。あれから20年以上、トータル200試合はやったかなあ」。馬淵監督は懐かしそうに振り返る。
一緒に食事をしながら野球談議に花を咲かせることも多かった。待ち合わせ場所はいつも「サウナ」。上甲氏は普段はアルコールを口にしなかったが、「オレと一緒のときは生ビール1杯くらいは飲んだ」という。
92年の夏、馬淵監督が星稜・松井秀喜(元ヤンキース)への5打席連続敬遠でバッシングを浴びたときも、「上甲さんは全力で励ましてくれた」。本田宗一郎の著書をプレゼントされ、「世界のホンダも最初は町工場やったんでえ。ワシが甲子園で優勝できたんやけん、馬淵くんにもできんはずがない」と背中を押された。
何でも話し、理解し合った2人の指揮官。ただ、野球のスタイルは正反対だった。馬淵監督は言う。
「上甲さんは攻めの野球。オレは守りの野球よ」
宇和島東時代、上甲氏は堅守を誇った県内の名門・松山商を破るために、打撃重視のスタイルを取った。当時はまだ一般的ではなかったウエートトレーニングを積極的に取り入れ、パワフルな打線をつくった。細い鉄の棒でパチンコ玉を打たせるなど、既成概念にとらわれないユニークな練習法でも有名だった。
馬淵監督は逆に、松山商を手本とした。69年夏に三沢(青森)との延長十八回引き分け再試合を制して同校を優勝に導いた一色俊作元監督(13年に他界)に憧れていた。守備を鍛え、小技を駆使する「確率の高い野球」。上甲氏から“ユニーク練習”を勧められても「ウチは基本練習しかせん!」と突っぱね、伝統的な手法で選手たちに基礎を教え込んだ。
影響し合っても、根本は崩さない。そんな2人の信念は甲子園で花開いた。明徳義塾が02年夏に初の全国制覇を果たすと、済美は04年に創部3年目でセンバツ制覇。上甲監督にとって2度目の初出場初優勝だった。
その04年センバツ準決勝で済美と明徳義塾は激突した。2人にとって甲子園では最初で最後となった直接対決。その前夜も、両監督はいつものように一緒に食事をしたという。
「夜9時ごろに上甲さんから電話があってね。『サウナ行って、飯食おうや』って。互いに探り合いながら焼き肉を食べました」。翌日の試合は済美が7-6で勝利。同点の八回、明徳義塾の守りにまさかのミスが出た。
「上甲さんの執念が上やった。あの上甲スマイルが憎ったらしくて…。もう1回、甲子園でやりたかった」
昨年8月26日。病室で約1時間半、「2人で昔話に花を咲かせた」のが最後の別れとなった。上甲氏は甲子園で通算25勝。馬淵監督は現在、歴代5位の45勝を挙げている。およそ四半世紀、200試合を重ねた切磋琢磨の日々が、合わせて70個もの勝ち星を生んだ。