備前スカウトが貫いた“カープの誇り”
広島の元スカウト部長・備前喜夫さんが、肺炎のため広島市内の病院で7日に亡くなった。81歳だった。尾道西(現尾道商)から1952年に入団し、高卒新人ながら開幕投手を務めるなど、球団草創期に活躍した備前さん。だが、筆者にとっては、カープを象徴するスカウトとしての印象が強い。
引退後は2軍監督などを務め、75年からスカウトへ。87年から15年にわたってスカウト部長を務めた。部長として野村謙二郎、前田智徳、金本知憲、佐々岡真司らの獲得に関わり、2002年に退団。ドラフトが逆指名制度だった98年、広島が最も力を入れて獲得を目指し、そして痛恨の失敗を喫したのが当時近大の二岡智宏だった。
高校生では松坂大輔(横浜=西武)、大学生では上原浩治(大体大=巨人)と2投手が1位候補として注目される中で、二岡もアマナンバーワン遊撃手の呼び声が高かった。広島・広陵出身の二岡に、広島は2年時から密着マークを続けていた。
最終的に巨人、阪神と三つどもえになったドラフト戦線だったが、逆指名の時代だ。条件面では巨人、阪神にかなうわけもなかった。「誠意」。この言葉を旗印に、備前さんは担当の宮本洋二郎スカウト(現日本福祉大特別コーチ)とともに、雨の日も雪の日もしゃく熱の夏の日も、近大グラウンドに通った。
練習は朝9時から。しかし、2人は7時半ごろからグラウンド脇に立ち、寮からグラウンドへやってくる二岡を待つ。リーグ戦中は試合前も試合後も、選手出口であいさつを欠かさなかった。ひたすら「誠意」を見せるため、二岡のいるところには常に姿を見せた。
取材では、最も早くから熱意を見せていた広島入りという情報もあった。しかし、巨人が9月ごろから猛アピール。ドラフト直前に巨人入りに転じたと見られた。当時はドラフト前に選手が逆指名球団を表明することが恒例。巨人、阪神、広島の3球団スカウトも近大の寮に呼ばれ、本人の意向を告げられた。
断わりを受けて寮の玄関に出てきた備前さんの言葉は、今も忘れられない。担当記者はその努力を知るだけに、かける言葉を失っていた。そこで備前さんは言った。「何も言わんでくれ。武士は食わねど高楊枝(ようじ)だ」。そして、そこに来た巨人の担当スカウトに「二岡のことを頼むな」と言ったのだ。
当時、コンビを組んだ宮本さんは振り返る。「備前さんは、有名ではなくても『この選手を見たい』と私が言うと、絶対に『行ってこい』と言ってくれた。切り捨てることをしなかった」。また、「多くをしゃべるな。相手の話を聞け。カープのスカウトは紳士であれ」。そう背中で教えられたという。
備前さんの訃報で、「武士は食わねど-」というせりふをあらためて思い出した。生き馬の目を抜く争いだったドラフト逆指名の時代。カープの誇りを貫いた姿は見事だった。合掌。
(デイリースポーツ・船曳陽子)