豊田泰光氏死去 西鉄の黄金時代支えた名遊撃手
豪快な野武士が天国へと旅立った。西鉄黄金期の遊撃手で中軸打者として活躍した豊田泰光(とよだ・やすみつ)氏が14日午後10時41分、誤嚥(ごえん)性肺炎のため、川崎市内の病院で死去した。81歳だった。茨城県出身。通夜は23日午後6時、葬儀・告別式は24日午前9時半から、いずれも東京都品川区の桐ヶ谷斎場で営まれる。喪主は妻峯子(みねこ)さんと長男泰由(やすゆき)氏。
真の野武士が逝った。負けん気の強さは人一倍だった。数々の伝説がある。その一つがファンが差し出したサイン色紙をめぐる逸話だ。中西太のサイン横に自身のサインを求められ、「なにを」とばかりに真上に重ねて書いたという。夏場の炎天下の守備練習で三原脩監督がノックしたボールを足で止め、激怒させたという話もある。
そんな無類の負けん気がグラウンドでの輝きをもたらした。53年の西鉄入団1年目から遊撃の定位置をつかみ、打率・281、27本塁打で新人王。86年に清原和博(当時西武)の31本に破られるまで高卒新人の最多本塁打記録だった。翌年はリーグ初優勝に貢献。56年には打率・325で首位打者となり、中西の三冠王を阻止した。
大舞台にも強い。巨人を相手にした日本シリーズ。56年はシリーズMVP、57年にも優秀選手に選ばれた。58年は4本塁打。3連敗で迎えた第4戦で五回に放った勝ち越しソロなど2発を平和台のスタンドに放り込み、4連勝へと導いた。
62年に中西新監督の下、選手兼任の助監督に就いた。だが、1年限りで国鉄(現ヤクルト)に移籍。周囲には西鉄を捨てたと見られたが、OBの安部和春氏は「年老いた母と東京で暮らすためだったと聞いた。引退後も話すのはライオンズのことばかり。ヤクルトの話は聞いたことがない」と語る。
2008年に球団創設30周年を迎えた西武が、それまで球団史から切り離していた福岡時代を自らの歴史として受け入れた。“復権”へ、先頭に立ったのが豊田氏。黄金期の復刻ユニホームに身を包み、西武ドームのグラウンドに立って「稲尾に見せたかったな」と万感の思いを一言に込めた。ライオンズへの愛も人一倍だった。