清原大乱闘!バット投げヒップアタック…翌日に謝罪「涙ぐんでいた」
1989年には西武の清原和博が、ロッテの平沼定晴にバットを投げ付けた。今なお語り草となっている乱闘を掘り下げた。
あの清原がバットを投げた。そこから突進し、ヒップアタックして走り去った。89年9月23日。夏の甲子園を制してからまだ4年しかたっていなかった。
左肘に死球を受けたのは四回。のちに日本記録を塗り替える死球の多さは、入団時から清原を苦しめていた。直前の打席では満塁弾。激高する理由はあったが、バットを投げたことに非難が集中した。連盟は異例の即日処分。出場停止2日間、制裁金30万円だった。
この乱闘の幕引きは、ここではない。暴行された平沼は左肩と左太ももの挫傷で全治2週間。地元の千葉では名の知れたやんちゃ坊主が、やられたままでは終われない。さすがに“場外乱闘”は止められたが、試合後の駐車場で清原を待ち伏せた。翌日の試合前に先輩の辻発彦に伴われ、清原がロッテのロッカールームを訪れた。
「謝りにきたんですよ。近くには兆治さん(村田)や功児さん(山本)がいて、怖い顔しててね。清原は涙ぐんでいたように見えました」
これにて手打ち。平沼は2度と清原にぶつけることなく、通算の対戦打率2割に抑えこんだ。