村田兆治、こじ明けた希望の扉 日本初のトミー・ジョン手術成功で奇跡の復活

 時代が「平成」に入った1989年。右肘の靱帯(じんたい)損傷を克服した右腕が通算200勝を達成し、平成初の名球会入りを果たした。40歳まで現役を続けた村田兆治はフランク・ジョーブ博士による靱帯再建の「トミー・ジョン手術」の日本球界初の成功例であり、その後の選手寿命の長期化にもつながった。

 平成の名球会一番乗りは、頑固に信念を貫いてきた「昭和生まれの明治男」だった。89年5月13日、山形県野球場での日本ハム戦。9回を投げ終えた村田は、その右腕をマウンドで誇らしげに上げた。通算200勝。座右の銘でもある「人生先発完投」を体現した122球、5失点の粘投だった。肘を痛めた投手は再起不能-。そんな球界の常識を村田は覆した。

 選手生命の長期化を語る上で欠かせないキーワードの一つに「トミー・ジョン手術」がある。痛めた右肘に別の腱(けん)を移植し、再建する。米国のジョーブ博士が権威とされ、日本のプロ野球界で最初の成功例となったのが村田だった。

 ロッテのエースとして「先発完投」のスタイルにこだわってきた村田が右肘を痛めたのは82年。有効な治療を求めて全国を回り、「日本の医療はやり尽くした」。自分はどうすればいいのか…。自問自答をするために熊野古道を歩き、仏法に触れ、座禅を組み、滝にも打たれた。気が付けば、野球から約1年間も離れていた。

 「努力することで(困難も)はねのけることができる。人生に『絶望』なんて言葉があってたまるか。自分ではそう思っていた。でも、初めて『絶望』を感じた」

 すでに30歳を超えていた。明確な解決策は見つからない。それでも、野球人生に区切りをつけることはなかった。

 「自分で『やり尽くした』と思えば終わりだった。でも、滝に打たれているときに『まだ俺は生きている』と思った。やらずに悔いを残すぐらいなら、やれることをやってみよう。ゼロから出発しよう、と」

 村田の頭には一人の医師が浮かんでいた。それがジョーブ博士だった。最後の望みを託すことを決め、左手首の腱を右肘に移植する手術を受けたのは83年8月のことだった。

 半年後に約10メートルのキャッチボールから再出発。心の中で「勝つんだ、勝つんだ」と繰り返し、リハビリに打ち克ち、自分がエースとして再び「先発完投」の投手に戻ることを信じた。その翌年秋に復帰登板を果たし、85年には開幕から11連勝。中6日で日曜日に先発する「サンデー兆治」は、最終的にシーズン17勝5敗の結果でカムバック賞を受賞した。

 そして、「昭和」から時代をまたいだ「平成」元年に通算200勝に到達。33歳で「タブー」と言われたメスを右肘に入れ、35歳で戦列に戻り、そこから6シーズン。90年に「それがエースとしての自分の終わり方」と史上2人目(当時)となる40代での2桁勝利(10勝)を置き土産として引退を決めた。

 ジョーブ博士とは手術後、来日した際に何度も顔を合わせ、そのたびに「今の自分があるのは村田さんのおかげだ」と感謝されたという。村田の復活が前例となり、「トミー・ジョン手術」の有効性は広く認知された。今は肘を痛めたからといって投手生命が終わることはない。

 その先駆者は引退後、全国の離島を回り、子どもたちに野球の基本技術を伝えている。「少年野球で正しい投げ方や考え方を教えることが大事。単に『100球投げたらダメ』ということではない。100球でつぶれるのは指導者の責任」

 少年野球や高校野球の指導者の責任ばかりを追及しようというのではない。最も正しい技術を知るプロとアマの垣根をさらに取り払い、それを伝えたい。それが村田にとっての社会貢献であり、野球界への恩返しでもある。

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