【悼む】野村克也さん死去 あの「ありがとう」は何に対してだったのか…

 南海、ヤクルト、阪神、楽天で監督を務めた野村克也氏が11日午前3時半、都内の病院で虚血性心不全のため死去した。84歳。テスト生で南海に入団し、65年に戦後初の三冠王を獲得するなど、数々のタイトルを獲得。現役引退後は「ID野球」を掲げ、ヤクルト監督時代に4度のリーグ優勝、3度の日本一を飾り、「ノムさん」の愛称で親しまれた知将が、静かに息を引き取った。葬儀は密葬で営まれ、後日、お別れの会が開かれる予定。

  ◇  ◇

 98年夏、県営宮城球場でのこと。打撃ケージの後ろにいた野村監督に呼ばれた。ヤクルトは開幕から低迷。某夕刊紙が「休養も」と書くに至り、監督は試合前恒例の囲み(雑談)を拒否していた。

 監督は冗舌だった。自身が本塁打を放った写真を見て、思い出を語る企画。監督はそれが後楽園球場だと見抜いた。狭いとされているが、ポール際のフェンスは高く力みがちになる。ギリギリでも場外でも本塁打なのだし、ちょこっと超えるように打席に立った…などを話してくれた。

 そのうち話は南海時代、大阪のことに。

 「ワシらは逃げるように東京へ来た。うちには大阪の写真が一枚もない。アレがその時、残らず、全部捨ててしもたんや」

 監督は外野に目をはせていた。渡していた写真には大阪時代のスナップも。「お返しは結構です」と記者は言い、数歩下がると監督から「おい」と呼び止められた。その後は、世間話。多分、番記者との雑談を封印してウズウズしていたのだろう。立ち去ろうとすると、なぜか「ありがとう」と言われた。視線は下に、低い声でボソボソと。

 後にも先にもお礼を言われたことはない。あれは何に対してだったのか…。もう答えを聞くことがないのが悲しい。(デイリースポーツ・98年ヤクルト担当・冨嶋幹生)

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