「褒めて褒めて褒めまくって」広島新庄を4度聖地に導く 監督退任の迫田氏に聞く

広島新庄の監督を退任し、インタビューに答える迫田氏
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 2007年秋から広島新庄を指揮し、春夏4度、甲子園に導いた迫田守昭氏(74)が3月31日付で監督を退任した。前任の広島商の監督としても2度、甲子園出場を果たしており、ソフトバンクの柳田らプロで活躍する教え子も多い。広島新庄での12年半に及ぶ監督生活を終えた迫田氏に聞いた。

 -退任を決めたのは。

 「年齢的なこともあって、2、3年前からどこかで後継者に譲らないといけないと考えていた。寂しさはほとんどない。逆に楽しみが多い。彼ら(広島新庄ナイン)が夏へ向けてどれだけ成長してくれるか。早くコロナが収まって試合をしてもらえたらと思う」

 -広島新庄の監督を12年半務めた。

 「ここに来た時は部員20人ほど。1回戦負けが当たり前のチームだったが、学校や地域の支えがあって、甲子園に出られるところまで来た。私一人の力ではない。皆さんのご支援があって無事に務めることができた」

 -退任発表に驚いた人も多い。

 「たくさんの人から連絡が来た。(教え子の)田口(巨人)、堀(日本ハム)からも電話があったけど、『人の心配はせずに自分たちが頑張りなさい』と伝えた。彼らが活躍してくれることが現選手の励みにもなる」

 -本来なら今春のセンバツが花道となる予定だったが。

 「しょうがない。大変な状況だから。私のことはいいが、選手は甲子園でプレーさせてあげたかった」

 -選手に伝えたいことは。

 「宇多村新監督の方針を理解して、これからも新庄らしい野球で頑張ってほしい。やはり大切になるのは、いかに守れるかだ。そこさえしっかりやれれば番狂わせはない。足に地をつけた野球をやってもらいたい」

 -広島新庄を指揮する前は母校の広島商も率いた。両校で指導法の違いはあったか。

 「広商では(選手を)殴らない日はなかった。でも、広商はそれでいい。そういうことを分かった上で選手も入学してくる。しかし、ここ(広島新庄)は学業が優先される学校であり、選手もそういうことを考えて来てるわけじゃない。広商でやってきたことを180度変えないと通用しない。(就任当初は)彼らを伸ばすためにはどうすれば良いか、毎日のように考えた。そして、たどりついた結論は褒めて褒めて褒めまくることだった。だから厳しく怒ることはなかった。(広島商時代の教え子である)宇多村がコーチで来た時に『監督、昔とずいぶん変わりましたね。いつもニコニコして褒めてばっかりで』と言われた(笑い)。そういう中でも選手は着実に伸びていってくれたので、これが彼らに対する確かな指導法だと確信した」

 -迫田氏にとって甲子園とは。

 「選手だけではなく、指導者にとっても“魔物”がいた。『普段通り』ということがこれほど難しいと感じたことはなかった。試合が終わるたびにいろんな反省が出てくる。何度か甲子園に行かせてもらったが、印象に残っているのは開会式。我々はスタンドで入場行進する選手を見るのだが、いつも涙が出そうになった。試合での勝った負けたという感慨は特にない」

 -兄・穆成(よしあき)氏(竹原高監督)は、どのような存在か。

 「兄より先に辞めるのは残念だけど、(兄の年齢である)80歳でやれと言われても、私はとてもできない。私が野球を始めたのは兄の影響。小学6年の時、兄が広商のキャプテンで甲子園で優勝したのを見て始めた。高校も兄と同じ広商に進んだんだけど、いつまでたっても兄には勝てない。越えることのできない偉大な兄です」

 -今後については。

 「高校野球は私の生活のすべて。これなくして私の生活はなかった。だから、これからが大変。これに代わるものを探していかないないといけない。こういう年齢でもあるので健康に留意しながら、選手たちの成長を見守っていきたい」

 ◆迫田守昭(さこだ・もりあき) 1945年9月24日生まれ。広島市出身。広島商、慶大、三菱重工広島で捕手としてプレー。1979年に三菱重工広島の監督として都市対抗で初出場初優勝に導く。00年秋に広島商監督となり、ソフトバンク・柳田、元広島・岩本らを指導。02年春、04年夏に甲子園出場。07年秋から広島新庄の監督に就任し、14年春、15、16年夏、20年春と4度、甲子園に導いた。同校の教え子は巨人・田口、日本ハム・堀ら。広島商、如水館を率い、現在は竹原監督を務める迫田穆成氏(80)を兄に持つ。

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