名将・木内幸男さん逝く 取手二、常総学院で甲子園3度V 聖地通算40勝
取手二(茨城)、常総学院(茨城)の監督として春夏通じて甲子園3度の優勝に導いた木内幸男氏が24日午後7時5分、肺がんのため茨城県取手市の病院で死去した。89歳だった。茨城県出身。甲子園には春7度、夏15度出場し、歴代7位の通算40勝。選手一人一人の能力を引き出し、大胆な選手起用や戦法で「木内マジック」と呼ばれた。葬儀・告別式は30日の予定で喪主は娘婿の岡田誠(おかだ・まこと)氏。
高校野球を彩った名将がまた一人、旅立った。近年の木内氏は自宅で闘病していた。しかし体調が優れず、痛み止めの投与が必要となったため、入院していた。亡くなる直前の23日には容体の悪化を受け、教え子でもある常総学院・佐々木力前監督(54)ら関係者が訪問。手を握って「頑張ってください」と快方を祈ったが、帰らぬ人となった。
木内氏は取手二監督時代の1984年夏の甲子園で、桑田真澄(元巨人など)、清原和博(元巨人など)の“KKコンビ”を擁するPL学園を決勝で破り、茨城県勢初の全国制覇を果たした。同年秋から常総学院の監督に就任。2001年春には県勢初となるセンバツ優勝、03年夏にもダルビッシュ有(現カブス)を擁する東北を撃破して頂点に立った。
取手二、常総学院時代を合わせ、春夏通算22度の甲子園出場で歴代7位となる40勝(19敗)を積み上げてきた。満面の笑みがトレードマークで、巧みな采配が持ち味だった。ここぞという場面でのスクイズや継投など、意表を突く采配は「木内マジック」と称された。本人は「マジックなんかじぇねえ。マジックは種明かしもある」と反論したが、ダルビッシュを打ち崩した03年夏の東北との決勝はその一例だった。
ダルビッシュ以外にも超高校級投手を次々と倒してきた。常総学院時代、準優勝に輝いた87年夏の甲子園・3回戦では尽誠学園・伊良部秀輝(元阪神など)を攻略した。
健康面に不安を抱え、03年の全国制覇後にいったんはグラウンドから退いたが「ときめくものは野球しかない。野球をやることで元気でいられる」と07年に常総学院の監督に復帰。以降は80歳になる11年夏まで指揮を執り続けた。
土浦一を卒業後は、後輩たちのためにコーチをしようと進学せず、指導者人生が始まった。教員ではなかったが、甲子園出場を目標とする高校野球という「学校」で教育者たらんと生きた。生涯、教員免許は取得せず、指導者一本を貫いた。