野村克也さん 40数年の“確執”乗り越え南海の歴史に戻ってきた 大阪なんばに遺品

 南海ホークスメモリアルギャラリーリニューアルオープン式典に出席した江本さん(右)と野村さんの孫・忠克さん
始球式に臨む江本孟紀氏(右)と野村克也氏の孫の野村忠克さん=なんばパークス(代表撮影)
 南海ホークスメモリアルギャラリーに展示された野村さんの遺品
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 大阪球場跡地の複合商業施設・なんばパークス内にある「南海ホークスメモリアルギャラリー」が14日、リニューアルオープンした。昨年2月11日に急逝した野村克也さんの遺品が新たに展示され、ソフトバンクの前身である南海ホークスの歴史が正しく記された。この日は4354万1500円の支援金が集まったクラウドファンディングの発起人である江本孟紀さん(野球評論家)らが参加してオープニングセレモニーが行われた。

 「おかえり!ノムさん 大阪球場(なんばパークス)に。」と題して行われたオープニングセレモニー。江本さんに加え野村家代表として孫の忠克さん(日大1年)が参加し、南海の歴史から消えていた野村さんの名前がメモリアルギャラリーに刻まれた。

 現役引退後にヤクルト、阪神、楽天の監督として有名だった野村さんだが、原点はテスト入団した南海にある。強打の捕手として数々のタイトルを獲得、1965年には戦後初の三冠王に輝いた。攻守の要として5度のリーグ優勝に貢献。69年オフには捕手兼任監督に就任すると73年にリーグ優勝(在籍6度目)を果たした。

 ところが77年、のちにおしどり夫婦として有名になった沙知代さん(故人)との関係を球団が問題視、シーズン2試合を残し監督を解任された。数々の功績を残しながら南海とけんか別れをしてロッテ、西武と渡り歩いて現役引退後に3球団で監督を務めた。

 南海は88年にダイエーに身売りし福岡に移転。本拠地だった大阪球場も取り壊され2003年になんばパークスがオープンした。数々の栄光を残した球団の沿革を示す展示コーナー「南海ホークスメモリアルギャラリー」も設置され、鶴岡一人、広瀬叔功、杉浦忠、門田博光らレジェンドたちの歴史が刻まれた。しかし、解任劇の影響で野村さんサイドと南海の溝は埋まらずこの日まで南海の歴史から野村さんの名前が消えていた。

 昨年11月にはじまったクラウドファンディングの発起人である江本さんは「なんばパークスに野村さんがいないのは気になっていた。野村さんに会って、入っていいんじゃないというと本人もそやなと言っていた。過去のいきさつがあって素直に言えなかった」と2人の会話を披露。野村さんが逝去し、息子で楽天の野村克則コーチからも「ぜひ入れてくださいと」と言われ野村さんの名が刻まれた。セレモニーでは克則コーチからのメッセージを長男の忠克さんが代読。始球式では江本さんの投じたボールを受けた。

 セレモニーに出席した遠北光彦南海電気鉄道社長は「メモリアルギャラリーに偉大な野球人を迎えることができました。長年の夢がかなった」と喜んだ。77年の解任劇からの長い“確執”に幕を閉じ、44年ぶりに背番号19のユニホームに身を包んだ野村さんが、大阪・なんばに戻ってきた。

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