ヤクルト黄金時代の4番・村上 5打席連発-55号-数々の偉業成し遂げ頂点導いた
「ヤクルト1-0DeNA」(25日、神宮球場)
この男の存在なくして、リーグ連覇は成し得なかった。5打席連続本塁打、日本選手最多タイとなるシーズン55本塁打の金字塔を打ち立てたヤクルト・村上宗隆内野手(22)。5年目にして漂うベテランの風格。バットで、声で、大きな背中でチームを支えた背番号55が、黄金時代を築いていく。
最後の最後まで村上は笑顔だった。踏ん張り続けた日々がようやく報われる。「(高津監督を)天まで飛ばしてやろうと思いました」。歓喜の胴上げ。夢が現実に重なっていく。勝った、頂点だ。涙にぬれる山田をそっと抱きしめる。仲間がいたからこそ、頑張れた。
「来年もチャレンジャーとしてやりたい。勝ちに貪欲でいけば、確実に勝てると思う」
強い言葉で、自らにプレッシャーをかけた昨オフ。7月にはチーム内でコロナがまん延し、大きな試練が訪れた。そんな緊急事態の中で「中心には僕がいる。みんなが戻ってくるまで、この順位を守り抜きたい」。世界記録となる5打席連発、清原超えの史上最年少150号到達。日本選手最多タイとなる55号で王貞治にも並んだ。有言実行の布石。負けん気の強さが原点だ。
力強い第一歩だった。小学4年で野球を始めると、2学年上の試合に交ざって試合に出場。小学5年の時には招待試合で人生初本塁打を放った。当時、熊本・託麻南小野球クラブでコーチを務めていた下田恭生さんは「驚きはしないですよ。本当に野球が好きで好きで、取り組む姿勢が違いましたから」と懐かしんだ。
右中間に真っすぐ伸びていった弾道で、始まった主砲としての道。誰よりも負けず嫌いだった。主将を担い、試合に負ければ、同級生が帰宅後に遊ぶ約束をしている中で一人、涙を流した。同学年には3人のスラッガー候補がいて、グラウンドの右翼奥にあるプールに打球を入れるのはたびたび。プール横にある校舎2階にもぶち当てていたという。
「一人がそこまで飛ばせば、自分は負けじとそれよりも上に当てるようにね。負けたくなかったんでしょう」
幼い時から投手、捕手、遊撃手を器用にこなしてきた。バットを振りすぎて、手にはいくつものマメができる。だが「今日の先発は回避しようか」と問われれば、すぐに「投げます」と即答。夢は変わらずプロ野球選手。憧れ、ずっと追いかけてきた。だからこそ、強くなれた。
2017年秋。プロの扉が開くと、新人王、最高出塁率のタイトル…。順調に歩みを進めたが、20年には本塁打と打点が共にリーグ2位に終わった。21年には本塁打王を獲得したが、打点があと一歩届かず2位。僅差で逃したタイトルに「それが実力」、「越えなきゃいけない」と足元を見つめ、奮い立った。
どんな逆境に立たされようと、敵は常に自分自身。勝った試合よりも、打てずに負けた試合を胸に色濃く刻む。嫌でもライバルたちの情報が入ってくる中で「常に打ちたい。相手が打っても、自分が打てばいい話なんですよ」と村上。バットを振り込んできた数だけ、チームの勝利だけを目指してきた。
無数の紙テープが舞う。笑顔と歓喜が戻った満員の本拠地。村上は何度も手を挙げながら、笑顔で応えた。残り6試合。日本選手最多本塁打記録に挑む。「みんなで喜びを分かち合う、この瞬間があるから、苦しい時も耐えられます」。苦しくてもうつむかなかった瞳に、最高の景色が映った。
◆史上初の5打席連発 7月31日・阪神戦の第3打席から8月2日・中日戦の第2打席まで5打席連続本塁打を記録。NPB史上初の快挙となった。
◆最年少シーズン40本塁打 8月11日・広島戦で今季40号。22歳6カ月でのシーズン40本塁打到達は1963年・王貞治、85年・秋山幸二の23歳を抜く史上最年少。
◆最年少150号 8月26日・DeNA戦でプロ通算150本塁打。22歳6カ月での達成で清原和博の22歳11カ月を更新。
◆14打席連続出塁&9打数連続安打 8月26日・DeNA戦の第3打席から同28日・DeNA戦の第5打席まで。NPB記録は連続打席出塁が15、連続打数安打が11。
◆シーズン50本塁打 9月2日・中日戦で記録。日本選手では02年・松井秀喜(巨人)以来の大台。
◆シーズン55本塁打 9月13日・巨人戦で記録。64年・王貞治(巨人)と並び日本選手最多本塁打。
◆1試合マルチ本塁打 NPB記録となる12度。