ヤクルト高津監督「岡田阪神」を語る ベンチ勝負「負けたくない」 青柳は「セの先発でトップ」
ヤクルトの高津臣吾監督(53)がデイリースポーツの独占インタビューに応じ、来季から阪神の指揮を執る岡田彰布監督(64)に勝ってリーグ3連覇を飾るため、野球脳をさらに鍛える考えを示した。年齢は11歳違うが、同じ11月25日生まれの両者。ホームベースを挟んで熱い火花が飛び交う。
-岡田新監督になった阪神をどう見ている?
「僕ね、あんまり岡田監督と長くお話したことはないんだけど、何回か話す機会があってね。僕がユニホームを脱いでいた時だったかな。すごくいろいろなことをご存じだったのよ。僕が台湾や韓国、BCリーグで野球をやったことにもすごく詳しくて。情報をたくさん持っているのか、記憶力がすごくいいのか。そこは詳しくは分からないけれど、いろいろなことをご存じの方なんだなという印象を受けました」
(続けて)
「これまたあんまり詳しいことを言うとアレなんだけど、現役の時にも岡田采配を相手監督として見ていて、意外とね『おっ!』っと思うことが多かったんですよ。マウンドで投げていて『はぁ!』って。驚きというか、思うことはたくさんあった。原監督であったり、岡田監督であったり、スワローズだったら野村監督や若松監督、古田監督の下でいろいろやりましたけど、そういう采配をするんだって思いながら投げていたことは何回かありました」
-来年はいろいろ仕掛けてくるかも。
「プレーするのは選手同士が戦うわけだけど、ベンチが戦うとなった時に、負けないように僕もいろいろ勉強しないといけないなと思っています。ベンチ勝負になった時、負けたくないなというのはありますよね」
-阪神の選手で気になる選手は。
「タイガースの投手陣はやっぱり気になるね。セ・リーグでは間違いなくナンバーワンなので。先発から中継ぎ陣、全てにおいてね。あれだけ強い球を投げる投手陣がそろっていて、決して青柳とか伊藤将が本格派とは言わないけど、ああやって技術で抑えていく…技術力というところでは、間違いなくリーグナンバーワンだね。すごく高いレベルの投手陣だと思いますね。これは誰もが認める部分かなと思うけどね」
-青柳は高津監督をマネして、あの投球フォームにたどり着いた。
「今の時代は少なくなった横投げの投手で、新しいバッターの打ち取り方を…昔はよくあったことなんだけど、それをまた復活させたイメージがあってね。ちゃんと低めに投げて、低めに落として、タイミングをいろいろと変えて、バッターを抑えていくのが彼のスタイルなんだけど、昔よくあったなと。僕も同じような投げ方をしていたので、そういうところを目指して投げていたなと思うことはよくあります」
-監督自身も思い出すことがあるのでは。
「僕なんかよりも全然、球のスピードがあるし、投球術もある。バッターとしては本当に厄介なんだろうなと思って、横からいつも見ています。だって、打球が上がらないもんね。どうやったらゴロを打たせられるかとか、どうやったらショートゴロを打たせられるか、どうやったらゲッツーを取れるかと思いながら、僕もやっていました。古田さんと一緒に『もう少し外』『もう少し遅い球だったら、あそこに飛ぶな』とか思って、投げていたからね。そういうところまでできる技術を持っているのかなと思うと、うん。彼は間違いなく今、セ・リーグの先発投手の中で、トップじゃないかな」
-強固な投手陣を目の当たりにして、投手陣を育てるということはどう感じるか。
「僕は野村監督から精神論であったり、人としてであったり、技術よりも考え方をすごく教わってきた。だからこそ、一生懸命に投げる以外のところで、成長できる部分はまだあるのかなと思っています。今の野球と、われわれが教わってきた野球は多少の違いもあるし、野球自体が進化もしている。どんどんアップデートしていかないと、今の野球にマッチしたものっていうのはできてこないとも思っているので」
(続けて)
「野村監督はずっと『監督は気づかせ屋だ』と言っていた。全てを技術として伝授するのではなくて、こういうのもあるよとか、こういう考え方もあるよとか。教える技術っていうのかな。それは僕自身がうまくなっていかないといけない。言葉を選んで、選手の心にも、頭にも残るように伝えていかないといけないなと思っています」
◆高津 臣吾(たかつ・しんご)1968年11月25日生まれ、53歳。広島県出身。現役時代は右投げ右打ちの投手。広島工から亜大を経て90年度ドラフト3位でヤクルト入団。米大リーグでは2004年からホワイトソックス、05年途中からメッツ。06年にヤクルト復帰。NPB通算598試合36勝46敗286セーブ、防御率3・20。最優秀救援投手4度(94、99、01、03年)。韓国、台湾、BCリーグ・新潟でもプレーし12年現役引退。ヤクルトでは14年から投手コーチや2軍監督を歴任して20年から1軍監督。21年はチームをリーグ優勝と日本一、22年はリーグ連覇へ導く。