江川卓が振り返る「怪物伝説」の数々 高校時代「最速の一球」「学業優秀で学年1番」などなど
あれから50年の月日が流れた。1973年、春夏連続で甲子園に出場した作新学院のエース・江川卓投手は、元祖怪物投手として語り継がれている。デイリースポーツは、YouTubeチャンネル「江川卓のたかされ」とのコラボ企画として、ノンフィクション作家の松永多佳倫氏が江川氏にインタビュー。江川氏自身に伝説を振り返ってもらった。
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松永氏(以下、松永)「江川さんの高校時代といえばノーヒットノーラン12回、そのうち完全試合2試合というとてつもない記録があり、公式戦ではホームラン0本」
江川氏(以下、江川)「はい、たぶんそうだと思いますよ」
松永「ただ、練習試合を含めると3本打たれています」
江川「早稲田実業で、左中間を抜かれてランニングホームランになっていると思います。それから宮崎に練習試合に行って(宮崎実業・石淵国博選手=後に広島=に)レフトスタンドに1本打たれています。もう1本は覚えてないですねえ」
松永「もう1本は高2春の大会後の練習試合で、丸子実業の小宮山さんという方に打たれています」
松永「これは江川伝説の中でもあまり知られていないことだと思うんですけど、江川さんは(高校時代の)成績が良くて、進学クラスにいた」
江川「僕は知ってますけどね(笑)」
松永「選抜クラスのAダッシュというのがあって、模試で2位になったことがあると」
江川「作新学院は普通科(男子部)だけで16クラスあったんです。1クラス60人なので(普通科全員で)900何人ですかね。女子は女子でいるんですよ。16クラス+女子(部)だから千何百人いました。それで入ったときにすぐ試験があったんです。入学試験とは別に。そしてひと月に1回、定期的に試験があったんです。最初の試験の時に(学年で)1番でした」
松永「あっ、1番だったんですか!」
江川「(入学前に)クラス分けをするために試験をやって、上位60人が1年1組に入りました。僕も入ったんです。それから毎月試験がありました。で、2年生のときに特別進学クラスのAダッシュというのがあって、そこに上位30人が選抜されて入る」
(続けて)
「そのクラスの人たちは受験が目標なんです。作新学院って必ずクラブ活動をしなくてはいけないんですよ。Aダッシュに入った人はパスがあって帰れるんです。クラブ活動をしないで塾に行けたんです。それでどうしようかとなったんです。というのも進学専門クラスですから、スポーツ選手(運動部員)は1人も入った人がいなかったんです。それで江川卓を入れるかどうかを(教職員の)皆さんが相談されて、せっかくだから試験的に入れてみようとなって入ったんです」
松永「(深夜)1時近くまでいつも勉強していたと」
江川「(進学クラスの授業に)追いついていけないので。練習が終わってから塾に行く時間はありませんから、自分一人で。夜中の1時ぐらいまでやっていました」
松永「高校3年間を振り返ってベストのボールというのは」
江川「1年秋の関東大会で前橋工業と試合しまして、一回の3アウト目から連続10三振というのがあるんですけど、そのときが一番、ボールが浮いた感じがしました」
松永「ファーストの鈴木(秀男)さんは“江川卓が一番本気で臨んだ試合だ”と」
江川「1年生ですからね。センバツが懸かってましたから、甲子園に出たかったんで、がむしゃらに投げたんでしょうね」
松永「高2夏(県大会で)に3試合連続ノーヒットノーラン。最後は小山高に延長十一回、サヨナラスクイズで負けましたが十回2死まではノーヒットノーラン。この夏はどうでしたか」
江川「良かったですね。ノーヒットノーラン、完全試合、ノーヒットノーランだったと思うんですけど、4試合目で十回2アウトまでノーヒットノーラン。そこから2本ヒットを打たれて、次の回もヒット打たれて、送りバントで二、三塁になった。ベンチは“外せ”っていうサインだったらしいんですけど、キャッチャーがカーブのサインと思われたみたいで、カーブを投げたんです。縦に曲がるカーブでしたから、笑い話みたいですけど、バッターがバットを縦にしたんです。ウソみたいでしょ(笑)」
松永「法政で一緒になる小山高の金久保(孝治)さんは、(打線の援護があれば)4試合連続ノーヒットノーランとなり、地区大会を1本もヒット打たれずに甲子園に行っていただろうって」
江川「うん、これがおもしろい話がありましてね、七回か八回に作新がノーアウト満塁にしたんですよ。で、バッターが打ったボールが小山高のピッチャーのグラブに飛びまして、ボールが入ったままグラブが落っこちたんですよ。でも、みんな“捕られた”と思った。拾ってファーストへ投げて(併殺で)2アウト、それでセカンドへ投げたのかな。(トリプルプレーと勘違いして)ベンチに帰っちゃった」
(続けて)
「捕球じゃないから、僕は“回れ、回れ”って大きな声で言ったんですよ。でもサードランナーはそのままベンチに帰ってきちゃった。そのときサードランナーがホームを踏んでいたら、ヒット1本も打たれずに甲子園に出られた。漫画みたいなシーンでした」
松永「甲子園ではどれが一番いい試合」
江川「最初の甲子園(1973年センバツ)の第1試合で優勝候補の北陽と当たりました。そのときはすごく調子が良かったんで、いいピッチング(19奪三振で完封)ができたと思いますね」
松永「途中から野手の守備練習のために打たせたと…」
江川「それはないです(笑)。それは作られた話です」
松永「小山高校の金久保さんが言うには、江川さんはもともと小山高校に来るはずだったと」
江川「小山に住んでいたんで、小山高校に来るものだと皆さんが思っていたという話なんです。最初は埼玉県で受験する予定で、浦和か大宮に行こうと思っていたんです」
松永「進学校ですね」
江川「そこに願書を出そうと思っていましたので、小山に願書は出してないんです」
(当時、江川氏が小山高へ進学するといううわさが流れ…)
松永「それで小山にいい選手が行ったと(金久保氏が)言っていました。“江川が小山に来ていたら高2の夏に余裕で全国優勝できていた”と」
江川「いい選手がいっぱいいましたからね。小山には」
松永「(高3夏の甲子園2回戦)銚子商業戦での最後の1球(サヨナラ押し出し四球)は自分の中で…」
江川「ベストのボールだと思いますね。悔いはないです。一番速いボールを投げたと今でも思っています」
松永「(チームメートは)いろんなことがあったけど、やっぱり江川卓のおかげだと話しています」
江川「そんなことはないです。それはもうみんなの、チームワークのおかげです。春と夏に(甲子園に)出られただけでも幸せなので。目標は達成できたという感じです」
松永「江川さんの究極は27球で試合を終わらせることだと」
江川「どっちがすごいかということ。全部三振で81球で終わるのか、1球で打たせて27球で終わるのかという話をしたということです」
松永「いつもノーヒットノーランを狙っていた?」
江川「そんなことはないんですけど(作新学院は)なかなか点数の取れないチームだったので、全力で投げていたというだけ。最初からやろうと思ったことはないですね」
松永「江川さんの高校時代の球というのが、野球人にとって夢のボールだと言われています」
江川「まあ、バネもあったし速かったとは思いますけど、精度、コントロールはプロに行ってからの方がついていますから、どっちがいいかは難しいですね。プロは速いだけではダメなんでね」
松永「江川さんのストレートは160キロの球以上に“当たらないストレート”だったと聞く」
江川「空振りさせようとするとスピンを多くします。スピンが多くなるということは空気抵抗が大きくなってボールが落ちていかない。“伸びる”ということなんですが、空気抵抗が大きくなるとスピードが落ちます。スピードを出そうと思えば回転を悪くして低めに投げればいい。そういうのは好きじゃないので。ストライクゾーンでスピンさせて空振りさせたい思いが強いですから」
松永「今の球児たちにメッセージがあれば」
江川「甲子園というのは本当に夢の場所だと思っています。(地方大会の)1回戦で負けるような力のチームでも“絶対に甲子園に出る”と思ってやってほしいですね。3年間やったことが一番の財産になるので、強豪と当たったとしても“絶対に甲子園に行くんだ”という気持ちで試合を始めてほしいですね。最初から諦めないで、どんなチームでもそれを目標にしてほしいなと思います」
◆江川 卓(えがわ・すぐる)1955年5月25日生まれ、福島県出身。67歳。現役時代は右投げ右打ちの投手。73年、作新学院3年春の甲子園で4強入りし、4試合で60奪三振は現在も大会記録。同年夏は1回戦で柳川商に延長十五回サヨナラ勝ちし、23奪三振。春夏合計92奪三振で奪三振率14.00(80奪三振以上の投手で歴代1位)。法大、作新学院職員を経て巨人入団。87年に引退。プロ通算266試合、135勝72敗3セーブ、防御率3.02。MVP1回、最多勝2回、最優秀防御率1回。
◆松永多佳倫(まつなが・たかりん)1968年11月29日生まれ。岐阜県出身。琉球大卒。ノンフィクション作家として「第二の人生で勝ち組になる 前職:プロ野球選手」(KADOKAWA)、「確執と信念 スジを通した男たち」(扶桑社)、「まかちょーけ 興南甲子園春夏連覇のその後」(集英社文庫)、「マウンドに散った天才投手」(講談社+α文庫)、映画化された「沖縄を変えた男 栽弘義-高校野球に捧げた生涯」(集英社文庫)などを執筆。2009年より沖縄県在住。