さらば怪童 西鉄黄金期のスラッガー・中西太さん死去 「これが天職」コーチ業で若松勉、イチローら名選手育成
プロ野球・西鉄(現西武)の強打の内野手として黄金期を支え、打撃指導でも定評があった中西太(なかにし・ふとし)さんが11日午前3時38分、東京都内の自宅で心不全のため死去したことが18日、分かった。90歳。高松市出身。告別式は家族で行われた。
スラッガー・中西太さんが逝った。甲子園にも出場した香川・高松一高時代から豪打で「怪童」と呼ばれ、1952年に西鉄入りして新人王を獲得。三原脩監督の下、稲尾和久、豊田泰光らと西鉄黄金期を築き、56年から3年連続の日本一を支えた。
監督兼任の時代を含めて現役生活は18年に及ぶが、自身では「勤続7年」と言い続けた。足、手首のけがに泣かされ、終盤は十分にプレーできなかったせいだろう。素振りなど打席に入る前の作業が進むと、巨体にくっついたお尻を振る。このユーモラスな一連の動きで観衆を沸かせ、強烈な打球を放った。
これはファンサービスでも、投手への威嚇でもなかった。鋭い当たりを生むための不可欠の準備で、打撃の基盤だった体の切れを生むためだった。全てにわたり繊細。帰宅後は柔軟体操と素振りに取り組む。いつも休養より鍛錬を優先した。
プロ入りから7年。「怪童」らしさはこの期間に詰め込まれている。新人王に続き、53年は36本塁打、86打点の2冠。当該タイトルを20歳で獲得したのは2リーグ制となった50年以降の最年少記録で、53年達成のトリプルスリーも史上最年少。本塁打王は4年連続を含む5度、首位打者に2度、打点王に3度輝いた。2冠が4度、あと一押しで三冠王に手が届くところだった。三塁手でベストナインにも7度輝いた。
故障を抱えた現役終盤での苦難が、その後のコーチ業に生かされた。評判の指導に「これが天職」と言い切れる自信。知将とうたわれた義父・三原脩監督の教えを実践し、信条も同じ「日々新たなり」を掲げていた。
兼任監督で63年V多くの球団で指導
62年に監督兼任となり、63年にリーグ優勝を果たすなど、現役引退する69年まで西鉄で指揮を執った。日本ハム、阪神でも監督を務め、ヤクルト、近鉄、巨人、オリックスなどでコーチを歴任。盟友の故・仰木彬監督とのタッグで近鉄では89年優勝に貢献。オリックスでも仰木監督とリーグ2連覇、96年の日本一を果たし、若き日のイチローを指導した。
打者育成の手腕は高く評価され、元ヤクルト監督の若松勉らを一流打者に育て、一線を退いた後も臨時コーチとしての要請が後を絶たず、宮本慎也、岩村明憲らを教えた。99年に野球殿堂入りを果たした中西さん。その教えは日本球界に大きな影響を与えた。
◆中西 太(なかにし・ふとし)1933年4月11日生まれ。香川県出身。現役時代は右投げ右打ちの内野手。高松一から52年西鉄(現西武)入団。1年目の開幕戦でスタメン出場(7番・三塁)。2年目には最年少でトリプルスリー(3割30本塁打30盗塁)達成。
62年に選手兼任監督就任。65年に現役を引退し、監督も退任した。西鉄を離れた後は日本ハム、阪神で監督を歴任。99年野球殿堂入り。巨人、西鉄、大洋などで監督を務めた三原脩は義父。