故郷の奥尻島も被災 3度の大地震を経験した佐藤義則氏が語る“プロ野球選手の使命”とは

 東日本大震災へのボ君を呼びかける田中将(右端)ら楽天ナイン=2011年3月
 ノーヒットノーランを達成した佐藤義則=1995年8月
 優勝を決め、胴上げされる佐藤義則=1995年9月
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 能登半島地震から3週間。今も多くの人が避難生活をしいられ、安否が確認できない人の捜索活動も続いている。デイリースポーツ評論家の佐藤義則氏(69)はオリックスの投手だった現役時代に北海道南西沖地震(1993年)と阪神・淡路大震災(95年)を、楽天コーチ時代には東日本大震災(2011年)を経験した。3度の大地震を目の当たりにした中で感じた野球選手としての使命とは-。

  ◇  ◇

 故郷の変わり果てた姿に言葉を失った。1993年7月の北海道南西沖地震。震源地に近い奥尻島は震度6を観測。大津波に襲われるなどして、多くの人が命を落とした。

 奥尻島出身の佐藤氏が故郷に戻ることができたのは震災から約10日後。「飛行機から見た島の光景は今も忘れられない。津波で家も何もかもが流されてしまって、まさにがれきの山だった」。両親は無事だったが、津波で伯母を失った。

 地震から1週間後に行われたオールスターでは第2戦に登板して2回4奪三振をマーク。インタビューでは「奥尻島の人も見てくれていると思って投げた」と故郷への思いを語った。復興支援に尽力し、野球少年のために野球道具も送った。

 2年後の95年1月には阪神・淡路大震災が起こった。震災前日に海外から戻ったばかりだった佐藤氏は宿泊していた大阪市内のホテルで被災。神戸市の家族は無事が確認できたが、自宅に戻れたのは1週間後だった。自宅が損壊したチームメートも多く、車の中での避難生活をしいられた知人もいた。

 その年、オリックスは「がんばろうKOBE」を合言葉に戦い、11年ぶりのリーグ優勝を成し遂げた。佐藤氏も8月の近鉄戦(藤井寺)でNPB史上最年長記録(当時)となる40歳11カ月でノーヒットノーランを達成。「被災した人たちと一緒に自分たちも頑張っていこうという気持ち。それがいい結果につながった」と振り返る。

 楽天の投手コーチを務めていた2011年3月には東日本大震災が発生。チームは兵庫県明石市でオープン戦を戦っていた。ナインが仙台に戻れたのは約1カ月後。佐藤氏も仙台の自宅に亀裂が入り転居を余儀なくされた。本拠地のクリネックススタジアム宮城(現楽天生命パーク宮城)も甚大な被害を受けた。開幕前に佐藤氏は選手に「被災したことを言い訳にしていけない」と伝えた。チームはその年、5位に終わったが、2年後に球団創設初の優勝を達成。まだ震災の爪痕が残る東北に歓喜をもたらした。

 今年1月1日の能登半島地震。球界でも多く選手が寄付や救援物資の送付など支援に動き、北陸出身の選手たちは「故郷に明るいニュースを届けたい」と決意を新たしている。そういう姿に、佐藤氏も震災当時の自身の思いを重ね合わせる。

 「選手が頑張っている姿を見せることが被災した人たちの大きな励みになる。プロ野球選手というのはそれだけ注目される存在。選手に伝えたいのは、まずは頑張って自分のために結果を残すこと。結果を残して初めて心に余裕もできて、被災した人たちへ寄り添うことができる」

 3度の震災を目の当たりにし、身内を亡くすつらい経験もしたからこそ、佐藤氏は実感を込めて選手にエールを送る。

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