苦手克服にブラジャーのパッド利用した元阪急・長池徳士氏 4打席連続本塁打の夢は敬遠でパー 32試合連続安打の快挙も不完全燃焼
阪急ブレーブス(現オリックス)の4番打者で、本塁打王と打点王をそれぞれ3度獲得した長池徳士氏(80)は入団当初、内角球が打てなかったという。だが、この苦手の克服が32試合連続安打の日本記録(現パ・リーグ記録)をもたらした。打撃の原点は内角を打つことにあり-。
半世紀以上も昔の話を長池氏は懐かしそうに振り返る。
「最初、僕はインコースをまったく打てなかったんですよ。プロのスピードについていけなかった。変化球の質もキレも全然違ったから」
法政大学時代は強肩俊足、巧打の外野手として鳴らし、3年秋に首位打者を獲得。打線のテコ入れを図る阪急の主力選手に期待された長池氏は、制度導入後初のドラフトで1位入団したエリートだった。
ところが、1年目はシーズン途中に2軍降格。後半に再登録され4番に座ったが、最終的に68試合の出場にとどまり7本塁打。打率も・263という低いものだった。
自らの弱点を痛感し、「これではメシが食えない」と悟った長池氏は、懸命に内角打ちの克服に努めた。
来る日も来る日も内角打ちに明け暮れた。キャンプになれば全体練習が終わったあとに2時間、400球は個別練習で打ち込んだ。
マシンをセットすると、ホームベースいっぱいに立って、内角球だけを打った。だが、うまくいかない。
「分かっていても打てない。詰まるから手が腫れる。青田(昇ヘッドコーチ)さんが“バットを中へ入れろ”とか“腰を回しながら入れろ”とかコツを教えてくれるんだけど、その回し方が難しい」
手の痛みで満足にスイングできなくても「試行錯誤」は続き、バットの先を少しだけ立ててみたり、左足のステップ位置をやや後方に引いたりしながら、「バットが通りやすい」軌道を探し求めた。
腫れる右手を保護するため、女性が身につけるブラジャーのパッドを手袋の中にしのばせて打っていた。これは「思いのほか効果があった」という。
「そうやっているうちに、ある日突然打てるようになる。体の使い方、コツが分かってくるんです。数を打てばそのうち体が理解し、覚える。頭で分かったものはある日突然忘れるけど、体で覚えたものは忘れない」
長池徳二(現在は徳士=あつし)といえば長距離砲というイメージが強いが、1971年5月28日(南海戦)から7月6日(西鉄戦)にかけて作った32試合連続安打では、アベレージを残せる打者であることも証明した。
この間の成績は125打数53安打、16本塁打、40打点、打率・424。凄まじい数字だった。
そして記録の達成は4番らしく派手に飾った。二回、西鉄の先発三輪悟の2球目、内角シュートを左翼へ運び、文字通り“一発”で決めた。雨上がりの西京極球場。歴史の目撃者5000人の目はいっせいに、モヤの中へ吸い込まれる打球を追いかけた。
四回にも三輪の内角カーブを捉えて左翼へ。六回は柳田の真ん中低めのカーブを左中間へ。この日、長池は3打席連発という大花火を京都の夜空に打ち上げた。
ところが、八回の4打席目は一死三塁で敬遠の四球。得点差は「2」で阪急リードの場面だ。
「1打席目で肩の力が抜けてたからね。次も勝負してくれてたら(本塁打を)打てたと思いましたね。競ってたという記憶はないんやけどねえ」
4連発への挑戦権を奪われた心残りも含めて、長池氏はこの試合をプロ野球人生の中でも「特に印象深いシーンのひとつ」と語る。
32試合連続安打は当時の連続試合安打日本記録。その後、広島の高橋慶彦に破られはしたが、今でもパ・リーグ記録として残る。
バットを構えたとき、左肩にあごを乗せる独特の仕草が特長的だった。これは外角へ逃げる球の対策として身についたものだ。
「よりインコースに集中してボールを正確に見るために、投手に(両眼で)正対しようとした結果、そうなっていった。追い込まれるまでは自分が設定したコース以外は振らないようにと」
単打も長打も「内角打ちこそがその原点にある」という考えが長池流打撃理論。
この年、打撃3部門で無冠に終わった長池氏だが、2年ぶりのリーグ優勝を果たし、自身2度目のMVPに輝いている。
(デイリースポーツ/宮田匡二)