なぜ大型トレードが消えたのか 元阪急4番が水面下で進んでいたエースらとの交換の新事実を明かす
阪急ブレーブス(現オリックス)の4番打者として本塁打王と打点王を各3度獲得した長池徳士氏(80)には現役時代、3度のトレード話があった。そのうちのひとつ。太平洋・東尾修、柳田豊両投手との2対1の大型トレードは、球団オーナーへの直談判の末、消滅したという。
今、打ち明けられる新事実の詳細とは-。
このトレード構想が水面下で進められていたのは1974年。長池氏が3度目の打点王を獲得したシーズンだった。オフに入ってひと息ついたころ。当時の上田利治監督から移籍の旨を通告された。
「太平洋は4番が欲しかったから僕に目をつけたみたいやったね」
稲尾和久、上田両監督の間に入って動いていたのは、すでに野球解説者に立場を変えて活動していた根本陸夫氏だったという。
「上田さんには“3年間行って来てくれ”と言われたけど、その3年が何を意味するのか分からなかった。でも僕は断った」
そして森薫オーナーに面会を求め、正直な気持ちを直接伝えた。
「大阪の千里にあるご自宅におじゃまして“僕は行きませんから”と言いました。そしたら流れたみたいでね。仮に決まっていたら、従わざるを得なかったでしょう」
理由はただひとつ。阪急ブレーブスへの愛着だった。
1966年にドラフト1位で入団し、主力選手として、それまで5度のリーグ優勝に貢献していた。タイトルも本塁打王を3度(69、72、73年)、打点王を3度(69、73、74年)獲得し、MVPにも2度輝いたミスターブレーブスだ。
わがままと言われても“阪急愛”というストレートな気持ちは分かってほしかった。その心が通じたのだろうか。阪急と太平洋との間で進んでいた話は消滅し、交換トレードは柳田、芝池博明-土井正博(近鉄)に形を変えて成立した。芝池は近鉄に“出戻る”格好になった。
弱体化した西鉄の後を引き継いだ太平洋は、どうしても強打者を獲得する必要に迫られていたのだ。
実は長池氏が阪急に入団した年。最初のトレード話があったという。1年目はプロのカベにぶつかり2軍暮らしを経験したが、そのころ南海の鶴岡一人監督から西本幸雄監督に打診があったらしい。
“長池を使わないならウチにくれ”と。
「これは僕が引退したあとに西本さんから聞いた話ですけどね。そのときは“いや、こいつに来年、ウチの4番を打たせるから”と言って断ったようです」
南海の鶴岡監督は、長池氏が徳島県立撫養高校(現鳴門渦潮)のエースで4番の時代から目を付け、南海の入団テストを受けさせたほど高い素質に着目していた。
その後、法大への進学を勧め、学費や生活費まで「給料」の形で援助。ドラフト制度が誕生していなければ「当然、南海へ入団していた」(長池氏)という事情を考えれば、うなずける話ではある。
仮にドラフト制度の導入が1年遅れ、自由競争下で南海へ入団していたら…。
「僕の人生は変わっていたかもしれません。たぶんダメになっていたんじゃないかな。青田昇(当時阪急のヘッドコーチ)さんに巡り会わなければ、モノになってなかったかも分からない」
3つめは同じ南海の野村克也氏が絡んでいる。プレーイングマネジャー時代の野村監督が「ウチへ来んか」と声をかけてきたという。
「ウソか冗談か分からないけどね」。厳密に言えばタンパリング?
これも合わせると3度のトレード話があり、すべて消えてなくなったということになる。
(デイリースポーツ/宮田匡二)