元阪急の長池徳士氏が語るたまたま続きの野球人生 本塁打王に選手宣誓も外野手転向も偶然の産物

 阪急ブレーブス(現オリックス)の4番打者として本塁打王と打点王を各3度獲得した長池徳士氏(80)の野球人生は“偶然”の連続だったという。特にプロ入りするまでは想像もしていない事態が次々に起こったらしい。

 「たまたま。僕には、これが多いんですよ。投手をやったのも“たまたま”だったしね」

 今から60年以上も前。徳島県立撫養高校(現鳴門渦潮)時代の話だ。長池氏は中学のころからなじんでいた内野手として入部した。

 ところが、1年秋の県大会。初戦の海南との試合当日にエースがユニホームを忘れるという大失態を犯した。

 「代わりにお前がピッチャーやれ!」

 この緊急事態。長池氏は監督指令で急遽、マウンドへ上がることになったという。

 右足の骨折で長期間チームから離れていた。そんな事情もあり、秋季大会は「ただの人数合わせ」でベンチ入りしていたと思っていたから戸惑った。おまけに投手経験なし。

 とはいえ投げてみたら何とかなった。結果は4-4の日没引き分け。これがきっかけで投手に転向し、2年春には堂々たるエースへと急成長した。

 エースで4番のキャプテンとして甲子園初出場を果たしたのは、1961年の第33回選抜高校野球大会。このとき長池主将は予備抽選の「1番くじ」を引き、選手宣誓の大役を務めることになった。

 「えーっ!と思ったね。やっぱりドキドキしましたよ。でも言葉は短くて覚えるのは簡単だったけどね」

 当時の宣誓文は“我々選手一同はスポーツマンシップに則り正々堂々と戦うことを誓います”のような定型文だったという。

 近年のような時事問題に触れる長文ではない時代だったからよかった?

 試合は松江商に1-4の初戦(2回戦)敗退。夏は県大会で負けて春夏連続出場はならず。エースで4番の高校野球は終わった。

 しかし、長池氏の「たまたま人生」は法政大学へ進んだあとも続いた。

 投手として通用していたのは高校まで。大学では早々と“失格の烙印”を押され、当時の田丸仁監督(法政二で夏春連覇時の監督)から内野への転向を迫られた。

 「内野は全部やらされましたね。捕手まで。捕手を断ったら“ほなら好きなとこやれ”と言われて外野へ回ったんですよ。そしたらたまたま…」

 秋の新人戦で1試合に2本塁打したという。ここで目をかけられ、2年春のリーグ戦から背番号「27」のレギュラー選手に抜擢された。

 元来、俊足であり強肩。3年秋のリーグ戦では首位打者にもなった。大学時代の本塁打は3本。強打者よりも、むしろ巧打者のイメージが強かった。

 「(人生には)きっかけというものが必ずあるもの。それをモノにするかどうかでしょうね」

 プロ球界では、すでに約束されていた南海ではなく、自由意思の反映されないドラフト制度の導入で阪急に入団。その阪急で名伯楽、青田昇の手により才能が磨かれ、ホームラン打者へと成長していった。

 “たまたま”という偶然をきっかけに、人一倍の努力でチャンスを“モノ”にする。それがミスターブレーブス、長池徳士の生き方だった。

(デイリースポーツ/宮田匡二)

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