「おめでとう」より「ありがとう」の言葉が多かったVパレード 元オリックス投手・野田浩司氏「終盤はみんなガチガチ」 #阪神淡路大震災から30年
1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災から間もなく30年を迎える。節目の日を前に、未曽有の自然災害を経験した各界著名人が当時を振り返る企画「あの日、あの時」がスタート。今回は元オリックス投手の野田浩司氏(56)が登場。避難所から見に来てる人たちから「がんばろうKOBE」の精神が伝わってきたと語った95年シーズン。異様な雰囲気の中で達成したオリックスの優勝を振り返った。
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野田氏はその年、言葉では説明できないような不思議な力を感じたという。「避難所からリュックを背負って見に来ている人たち」の姿からは復興へのスローガン『がんばろうKOBE』の精神が伝わってきた。そしてチームはどんどん強くなっていった。
何がなんでもグリーンスタジアム神戸(現ほっともっとフィールド神戸)で試合を-。宮内義彦オーナーの大号令はナインの心を揺さぶり、本格的な夏場を迎える前にオリックスは首位を不動のものにしていた。
盛り上がる周囲。マスコミの数は何倍にもなっていた。球場は満員札止め。オリックスとしての初優勝を見届けようと、外野の外から木によじ登って“観戦”する人もいた。
「イチローブームはあったけど、阪急以来、注目されるチームでもなかったし異様な雰囲気でしたから、何ゲーム差も開いているのに終盤はみんなガチガチだった」
無心で「周りに乗せられて勝っていた」選手も優勝を意識した途端に急ブレーキ。普段はミーティングを開かない仰木彬監督が選手を集めて重圧と緊張を解きほぐし、最後は所沢で決めた。
阪神からオリックスへトレードされて3年目を迎えるシーズンだった。震災の朝は「小型の飛行機でも墜落したのか」と思って外へ飛び出した。
西宮からの引っ越し先だった神戸市須磨区の自宅は「コップが割れた程度」だったが、「ちょっとした角度の違い」で被災規模は大きく異った。「火災のひどい地域もあったけど、消防車が回っていない」ことに愕然(がくぜん)とした。
「関西は地震が起きないところ」
1988年、阪神に入団した熊本生まれの野田氏には、そんな思い込みがあったという。妻の千代美さんも同郷。そのため「まったく無防備な状態」で生活していた。しかし、天災は時と場所を選ばない。地震への備えはこの日を境に意識するようになった。
心残りがひとつある。「震災で親を亡くした子どもたちに」という思いで「K基金」を立ち上げた。三振1個につき1万円の寄付。V旅行先で千代美夫人の助言もあり、翌96年から始めた。
ところが、それまで3年連続で200奪三振を記録していた豪腕がその後、影を潜めてしまっただけに、「1年目からやっていたら」と今では苦笑いだ。
Vパレードでは「“おめでとう”よりも“ありがとう”の言葉が多かった」という。野田氏も同じ気持ちだった。(宮田匡二)
◆野田 浩司(のだ・こうじ)1968年2月9日生まれ、56歳。熊本県出身。現役時代は右投げ右打ちの投手。多良木から九州産交を経て、87年度ドラフト1位で阪神入団。93年にトレードでオリックス移籍。95年4月21日・ロッテ戦(千葉)で1試合19奪三振。最多勝、ゴールデン・グラブ賞(いずれも93年)。通算成績は316試合89勝87敗9セーブ、防御率3.50。2000年現役引退。04年にオリックス1軍投手コーチ。現野球評論家。