カープ栗林がよみがえらせた91年大野の快投 “快刀乱麻”日本記録14試合連続セーブでV貢献
元中国新聞記者でカープ取材に30年以上携わった永山貞義氏(72)がデイリースポーツで執筆するコラム「野球爺のよもやま話」。広島商、法大でプレーした自身の経験や豊富な取材歴からカープや高校野球などをテーマに健筆を振るう。
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4月中旬、野良出身の古猫とじゃれ合っていると、ベースボールマガジン社から原稿の執筆依頼が舞い込んできた。要求されたテーマは「山本浩二監督の第1次政権における、あれこれ」。6月号で発刊する「広島東洋カープ ビッグレッドマシン伝説」の一章として掲載したいという。
となると、話の中心になるのはもちろん、1991年に達成した6度目のリーグ優勝。その中で当誌では、あまり触れていない大野豊の快投を今回は書いてみたい。
まず当時の勢力図を振り返ると、89、90年の連覇が示すように巨人の天下。89年に山本政権が発足したカープはともに2位につけたが、同年は7ゲーム差、90年は22ゲーム差と圧倒的な力の差を見せつけられていた。この対抗策として山本監督が手を打ったのが大野と津田恒美の「ダブルストッパー」。これには左のエースながらこの2年間、勝ち星が一桁に終わっていた大野と前年、膝の故障で1年間を棒に振った津田の復活にも、期待をかけたダブルの狙いが込められていた。
しかし、この構想は津田を襲った病魔によって、いきなり崩れた。初登板の中日戦に続き、次の巨人戦も終盤、打者3人に対し、わずか9球で同点にされて降板。この一戦が後に「脳腫瘍」と診断された津田の現役最後の登板になったのは、よく知られるところだろう。
一方、配置転換された大野は水を得た魚のようだった。まず初登板の中日戦で勝ち星が転がり込むと、次の阪神戦で初セーブ。そして3試合目のヤクルト戦で1イニングを3人で切り、2セーブ目を挙げると、ここから誰もが目にしたことのない快進撃が始まったのである。なにせ失点はおろか、安打さえ打たさなかったのだから、ファンの目にはきっと、「守護神」と映ったことだろう。
こうした快投を続けた後の6月8日のヤクルト戦では、ついに11試合連続セーブのプロ野球新記録を達成。この記録を14試合連続まで更新した試合で、連続無安打が13イニング、43人で途切れたのがビッグニュースになったほどだった。
結局、無失点での連続セーブ記録は次の巨人戦でブラッドリーにサヨナラ3ランを打たれストップしたが、ここまでのピッチングはまさに「快刀乱麻を断つ」との表現がピッタリの内容。翌日の中国新聞のコラム「球炎」に「大野もやはり人間だったか」と書いているところを見ると、こちらの目にも「神様」のように映っていたに違いない。
最終的には6勝2敗26セーブで最優秀救援投手賞を獲得。この快投などによってチームは中日を大逆転し、V6を達成した。その要因について、大野は言っている。「津田が僕に力を貸してくれたと思うし、津田のことがなければ、中日との(最大)7・5ゲーム差はひっくり返せなかったかもしれない」。とすれば、その左腕には津田の無念さが乗り移り、「ダブルストッパー」として機能したのかもしれなかった。
歴史は繰り返すという。今年の栗林良吏を眺めていると、まるで30年前の大野のビデオを巻き戻して見ているかのようである。大野が切れのいい速球をベースに7色の変化球を操ったのに対し、こちらは剛球に加え、フォーク、カット、カーブのどれもが勝負球にも使えるという万能型のクローザー。数字的にも大野が14試合連続無失点セーブだったのに対し、こちらはセーブがつかない試合があったものの、それを上回る17試合連続無失点を続けているのだから、ただひたすらに感服するしかない。
これほどの切り札を抱えながら、チームが下位にいるとは、「これいかに」というのが世間一般の心境ではないか。こんな状態を一般的には「宝の持ち腐れ」という。こんな愚痴を書いているうち、チームは大変なコロナ禍に見舞われ、21日からの阪神3連戦が延期になった。こんな有事だからこそ、今後は若手の有効的な活用と同時に、この「宝」を値打ち通りに使わなければ、らちがあくまい。
永山貞義(ながやま・さだよし)1949年2月、広島県海田町生まれ。広島商高-法大と進んだ後、72年、中国新聞社に入社。カープには初優勝した75年夏から30年以上関わり、コラムの「球炎」は通算19年担当。運動部長を経て編集委員。現在は契約社員の囲碁担当で地元大会の観戦記などを書いている。広島商高時代の66年、夏の甲子園大会に3番打者として出場。優勝候補に挙げられたが、1回戦で桐生(群馬)に敗れた。カープ監督を務めた故・三村敏之氏は同期。元阪神の山本和行氏は一つ下でエースだった。