「自殺伝説」からスター街道へ どん底からはい上がった鯉レジェンドたち
元中国新聞記者でカープ取材に30年以上携わった永山貞義氏(72)がデイリースポーツで執筆するコラム「野球爺のよもやま話」。広島商、法大でプレーした自身の経験や豊富な取材歴からカープや高校野球などをテーマに健筆を振るう。
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それは簡単に見過ごすほどの10行足らずの小さな記事だった。今年9月25日付の中国新聞によると、阪神のゴールデンルーキー、佐藤輝明の連続無安打が2リーグ制となった1950年以降の新人野手ワースト記録を更新する42打席となったというニュースである。これだけなら「あれほど強振すれば、さもありなん」と思うだけだったろう。しかし、続く「これまでの記録は55年の藤井(広島)の41打席だった」というくだりに、この打者の「自殺伝説」に対する新たな証言を得たような気がして、思わず膝を打った。
ここに出てくる藤井こと、藤井弘は昭和30年代のカープのアイドルだった。「球界の天皇」と称された金田正一(国鉄)にめっぽう強かった主砲だが、それより素朴、不器用、いちず、律儀で、野球少年をそのまま大人にしたようなプレースタイルを誰もが愛した。いわば攻守にわたるヤボったいプレーが魅力の田舎球団ならではのアイドル。これほどファンから愛された選手は、球団史上随一ではあるまいか。
こんな藤井さんに私がこの頃を取材したのは、中国新聞に「カープ50年」の連載をした1999年である。その中で衝撃的だったのは入団1年目の55年。2軍戦のあった別府市から船での帰路、甲板から「海に飛び込んでしまおうか」との衝動に駆られたという話だった。
「カーブが打てなくてね。精神的にも参って、トスバッティングでも空振りをしていたほど。あの時は海が芝生に見えて、あの中に寝転んでいたらいいなと思った」。その時、自殺を心配して現れたのが野崎泰一2軍監督。ここで諭されて一念発起し、以後は猛練習によってスター街道を歩む様までは書いたが、その前が当時の新人の連続無安打記録保持者だったとは。今回、阪神・佐藤輝の新人連続無安打というニュースが流れなければ、分からなかった。ちなみに藤井の1年目の成績が53打数4安打の打率7分5厘。こんな力不足を見越されたからこそ、以後は2軍暮らしを続けたのだろう。
こんなさえない話を掘り起こしていくと、「鉄人」こと衣笠祥雄のスランプも想起されてくる。鉄人がこの病に悩む姿は何度も見てきたが、その中で特に印象深かったのが79年のそれだった。当時の衣笠といえば、連続試合出場と全イニング連続試合出場の日本記録更新に向けて、ばく進中のころ。このうち全イニングの方は、三宅秀史(阪神)が持つ700試合まで残り58試合。本人もそれを励みに調整し、順調にいけば6月中に達成できるはずだった。
ところが4月中旬以降、調子が一向に上がらず、5月下旬までの打率が1割9分8厘。ここまでの15年間で最大のスランプといってよかった。チームも低位に沈んでいた状況下、古葉竹識監督がスタメンから外したのが残り22試合に迫っていた5月28日の中日戦。試合前の記者会見で目に涙を浮かべながら、「後悔しないだけの努力はしてきたつもりだが、うまく回転しなかった」と語った光景は、今も忘れ得ぬ1シーンとなっている。これが劇薬になってか、衣笠は以後、復調。チームも2度目のリーグ優勝を飾り、古葉監督の続投も決まったのだから、結果的には球団史を彩る良策になったといえよう。
こんな話を二つも掘り起こしていったのは、阪神・佐藤輝の新人連続無安打記録がニュースになった9月25日時点で、カープの坂倉将吾が26打席連続無安打という事態に陥っていたからに他ならない。端から見れば打撃技術は抜きん出ているように見えても、まだ高校卒5年目の若者。規定打席に達した途端、打率トップに名前が出ては、数字を意識して2割9分台まで落としたのも、無理からぬ話だったのだろう。
しかし、連続無安打を断ち切ると、ここからまた盛り返したのだから、そのバットはさらに一段階ほど進化したのかもしれない。残り7試合。鈴木誠也らとの首位打者争いを楽しむとともに、季節外れの快進撃でめぐってきたクライマックスシリーズ進出を夢見たい。
◆永山貞義(ながやま・さだよし)1949年2月、広島県海田町生まれ。広島商高-法大と進んだ後、72年、中国新聞社に入社。カープには初優勝した75年夏から30年以上関わり、コラムの「球炎」は通算19年担当。運動部長を経て編集委員。現在は契約社員の囲碁担当で地元大会の観戦記などを書いている。広島商高時代の66年、夏の甲子園大会に3番打者として出場。優勝候補に挙げられたが、1回戦で桐生(群馬)に敗れた。カープ監督を務めた故・三村敏之氏は同期。元阪神の山本和行氏は一つ下でエースだった。