山本一次政権下での「平成維新」
元中国新聞記者でカープ取材に30年以上携わった永山貞義氏(72)がデイリースポーツで執筆するコラム「野球爺のよもやま話」。広島商、法大でプレーした自身の経験や豊富な取材歴からカープや高校野球などをテーマに健筆を振るう。
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今年はカープが1963年から宮崎県日南市でキャンプを始めて60年目という。この間、25年以上もここに足を運んでいるのだから、いろんな思い出が私にもある。そんな中、一番、印象深いキャンプとして記憶に残っているのは、山本浩二監督が初登場した際のそれ。今回はそのキャンプの内容を含めて、いろんな物語もあった第一次山本政権のあれこれについて触れてみましょうか。
1989年がこの政権の1年目。年号は「昭和」から「平成」へと変わり、チームもちょうど変革期を迎えていた。87年までに山本浩、衣笠祥雄の両主砲が去った打線は貧打に泣き、自慢の「投手王国」も陰りが見えていた時期だった。こんな危機的な現況に対して、山本監督が施したのが「原点回帰」という措置である。
それを象徴する光景としてさらされたのが組閣直後の88年11月に行った日南秋季キャンプ。狙いとしたのは、これまでぬるま湯のような体制の中で「心身についたぜい肉を落とす」の一点。それだけにその練習は球団史上、最も過酷な内容として語り継がれている。
まず午前10時から2時間も組み込まれたウオームアップとは名ばかりで、実質的にはランニングとダッシュの繰り返し。打撃は通常の本数のほか、特打でも約1000球打たせた後、息つく間もなく特守と続いた。
これが連日、7時間半。このころになると、球場には照明灯が付けられたほどだった。しごきともいえるこれらの仕打ちに、達川光男が漏らした「胃からも汗が出た」との感想がこのキャンプのすさまじさを言い当てていた。
翌年の春季キャンプはさすがに調整が加えられたが、厳しさに変わりあろうはずがない。おかげで前年、・244とリーグ最下位だったチーム打率はリーグトップの・271と飛躍。勝ち星も球団歴代2位の73勝と伸びたのだった。
しかし、同年に続いて翌年の90年も2位にとどまったのは、このころの巨人が強すぎたからにほかならない。投手陣はといえば、斎藤雅樹、桑田真澄、槙原寛己、木田優夫、宮本和知ら。打線は原辰徳、篠塚利夫(和典)、クロマティー、吉村禎章ら投打とも一流ばかりの顔ぶれ。
これでは誰が投げても、誰が打っても力が同じという「金太郎アメ」のような戦力のカープとしては、竹やりで巨人の堅城に立ち向かっていっていたようなものだろう。
こんな状況下で迎えた山本政権3年目の91年、奇跡が起こった。それは悲劇を伴った末の歓喜だった。この年、カープは大野豊を抑えに回し、津田恒美とともに「ダブルストッパー」を看板に掲げてスタート。しかし、キャンプ終盤を迎えても、津田の調子が一向に上がってこなかった。
そんな折り、彼が口にした一言が私にとって、生涯最大の衝撃として今でもよみがえってくる。「ずっと頭が痛いんですが、ガンですかね」。その時はこちらも「頭のガンって聞いたことがないよ」とすぐさま否定したが、シーズンに入っても初登板の中日戦で打たれ、続く4月14日の巨人戦も打者3人に対して一死も取れずに降板。結局、この試合が最後の登板となったのだった。
その後、病名が「脳腫瘍」と知れると、「津田のために頑張ろう」がチームの合言葉になった。実際、7月上旬、首位中日に最大7・5ゲームもの差を付けられていたが、9月に入って「全員野球」で逆転。そのままゴールのテープを切ったのだった。
こうした経緯の中。プロ野球記録を大幅に更新する14試合連続セーブをマークするなど、獅子奮迅の活躍をしたのが大野。その要因について大野は「津田が僕に力を貸してくれたと思うし、津田のことがなければ、中日を逆転できていなかったかもしれない」と語っている。
この快挙を私は勝手に「平成維新」と名付けている。カープにとっては初優勝した75年の「昭和維新」に続く2度目の奇跡だが、今年はどうか。鈴木誠也の穴、坂倉将吾の故障、新外国人選手の来日の遅れなど暗いニュースの中でキャンプがスタートしたが、若手台頭などの期待もある。その成果を楽しみに見守りたい。
◆永山貞義(ながやま・さだよし)1949年2月、広島県海田町生まれ。広島商高-法大と進んだ後、72年、中国新聞社に入社。カープには初優勝した75年夏から30年以上関わり、コラムの「球炎」は通算19年担当。運動部長を経て編集委員。現在は契約社員の囲碁担当で地元大会の観戦記などを書いている。広島商高時代の66年、夏の甲子園大会に3番打者として出場。優勝候補に挙げられたが、1回戦で桐生(群馬)に敗れた。カープ監督を務めた故・三村敏之氏は同期。元阪神の山本和行氏は一つ下でエースだった。