津田恒美氏殿堂入りの思い出【永山貞義よもやま話】
先月中旬、野球殿堂博物館から今年の殿堂入りメンバーが発表され、競技者表彰のプレーヤー部門でラミレス(ヤクルトなど)、エキスパート部門でバース(阪神)、特別表彰で作曲家の古関裕而氏が選ばれたのは、既にご承知と思う。3人とも昨年、当選投票数まであと一歩だっただけに、この結果はほぼ順当ではあったろう。
野球殿堂入りメンバーの選出には、現在も競技者表彰委員会の投票委員の一人として、プレーヤー、エキスパートの両部門で一票を投じている。この任務に深く関わったのは、広島運動記者クラブの同委員会幹事をしていたころ。当時は野球殿堂博物館内での開票作業にも立ち会い、身近な選手の票の行方を一ファンとして興味深く注視していた。
中でも毎年、祈るような気持ちで見守ったのが、津田恒美の投票数である。脳腫瘍で死去した翌年の1994年に候補者としてノミネートされた当初、10票余りに過ぎなかった票数は、資格期間が11年の当時の最終年には、154票まで伸びた。それでも当選に必要な総数の75%以上に対して50票余り不足。落選した時はこちらも落胆したが、野球の神様はこの一途な怪腕を見放さなかった。
その後、資格期間が15年に延長されたのに伴い、再びノミネートされ、期限切れ寸前の2012年に当選。それも、当選投票数をわずか1票、上回っただけの滑り込みセーフの結果だった。
実働10年間の成績が49勝41敗90セーブ。当時、名球会入りした未選出の選手がゴロゴロしていた中では、決して記録を誇れる選手ではなかった。それでも選ばれたのは、太くて短かった人生の鮮やかな心象が記者連の記憶に残り、一票を投じさせたのだろう。
その10年間をあらためて振り返ると、20数年前に公式戦取材で鹿児島市を訪れた際、居酒屋で目にした鎮魂歌に集約されていると思っている。書いたのは「旅の詩人」と言われる須永博士さん。カープ鹿児島応援団員の店主が話す津田の「直球勝負の人生」に感動し、横5メートルの白い壁面に、墨で一気に書き上げたという。
「(前略) 津田よ お前の一球には生命があった 夢があった できぬことをできるまで つきつめた男のロマンがあった 津田よ いつもお前は本気だったな いつもお前はみんなを感動させたな(後略)」
確かに闘志に満ちあふれた一本気のマウンドは、そのようだった。常に全力。エネルギーを爆発させ続けたゆえに、野球人生の半分をけがとの戦いに費やしたのかもしれない。
まず新人王に輝いた翌年の2年目、前半戦だけで9勝を挙げながら右肩を痛め、後半戦を棒に振った。3年目には右手中指の血行障害に悩まされ、2年間の沈黙。そしてストッパーとしてよみがえった後の9年目には、右膝のじん帯が悲鳴を上げ、わずか4試合の登板にとどまっている。
これだけならまだしも、10年目の91年には脳腫瘍が発覚し、2年後に死去とは、何たる悲運。病名が明らかになった後、「津田のために」とナインが結束し、同年のリーグ優勝の原動力になったのが、その時の衝撃の強さを物語っていた。
純朴にして、無垢(むく)な性格の津田は、それほど誰からも愛された男だった。86年、5度目の優勝を決めた一戦で、完投目前の北別府学が津田にあえて胴上げ投手を譲ったのが、それを示す一つのエピソード。この両者が同じ年に殿堂入りしたというのも、太字で球団史に刻んでおきたい逸話である。
追伸として今年の殿堂入りの結果を記すと、プレーヤー部門の候補者(20人)になって2年目の黒田博樹さんが355票のうち245票を獲得。3位の位置づけからして、早ければ来年あたりに仲間入りするかもしれない。
また、初めてエキスパート部門の候補者(19人)になった安仁屋宗八さんが、154票のうち、いきなり7位タイの40票を集めたのも、その人気が全国区になっているからだと思った。野村謙二郎さんや前田智徳さんらの候補者と合わせ、今後が楽しみになってきた殿堂入りの行方ではある。
◇永山 貞義(ながやま・さだよし)1949年2月、広島県海田町生まれ。広島商-法大と進んだ後、72年、中国新聞社に入社。カープには初優勝した75年夏から30年以上関わり、コラムの「球炎」は通算19年担当。運動部長を経て編集委員。現在は契約社員の囲碁担当で地元大会の観戦記などを書いている。広島商時代の66年、夏の甲子園大会に3番打者として出場。優勝候補に挙げられたが、1回戦で桐生(群馬)に敗れた。カープ監督を務めた故・三村敏之氏は同期。阪神で活躍した山本和行氏は一つ下でエースだった。