【悼む】亡くなった元広島・清川氏がサイドハンドの投球フォームになった理由 同期入団の川端順氏に「僕の勇気を認めてください」

 元広島、近鉄の投手で変則左腕として活躍した清川栄治氏が5月5日、悪性腫瘍のため死去した。62歳だった。カープの同期入団(1984年)で現役とコーチ時代をともに過ごした川端順氏(64)は、かけがえのない戦友への惜別の情を追悼の言葉で表した。

  ◇  ◇

 清川はユニホームのズボンの右ポケットにお守り、左ポケットに塩を入れて試合に臨み、塩は必ずマウンドにまいてました。ブルペンを出入りするときの一礼も欠かすことがない。礼儀正しく、きれい好き。真面目を絵に描いたような性格でした。

 彼は歌がうまかった。よく12球団対抗歌合戦などにカープの代表として出場していたほど。そんな彼でも皆で飲んでいると、それこそ“おはこ(十八番)を一つ歌うだけ”で楽しそうに聞いているタイプ。酒とつまみがあれば十分という、晩酌の似合うタイプでしたね。

 人の話をじっくり聞くことも好きでした。1時間話をすると、1冊の本を読んだのと同じくらい価値があると言って。雑談の中から知恵を見つけるという感じで、向学心が高かった。

 コーチ時代は正面から選手と向き合ってコミュニケーションをとり、常に一方的にならず、相手の心を上手に引き出していた。カープで同時期に投手コーチをしたときに、それを感じましたね。昭和の人間なのに、心はずっと以前から今風でした。

 広島やオリックス、西武でコーチを務め、亡くなるまで球団に在籍できていたのも、そういう誠実さを感じてもらっていたからでしょうか。

 現役時代はお互いにリリーフ投手として助けたり、助けてもらったり。最後は津田につなぐ役目でした。

 彼は週刊誌の取材に僕ら2人のことをコーヒーに例えて“川端さんがミルクなら僕は砂糖”という表現で答えていた。ブラックで飲んでもおいしいけど、あったらあったで使いようがあるという意味でしょうかね。

 中継ぎという地味な仕事だったが、清川という投手は僕に言わせれば、角(盈男=巨人など)、永射(保=西武など)に並ぶ左サイドハンドのビッグスリー。あの浮き上がるボールの質は、点でしか捉えられないから空振りが多かった。

 もともと上手投げの本格派だったが、プロ入り後は課題だった制球力をつけるため、慣れ親しんだ投球フォームから腕の位置を下げるという決断をしたんです。そのときは「僕の勇気を認めてください」と訴えるように言ってきた。相当腹をくくった様子でした。

 強打者を相手によく投げていましたね。バースやクロマティを打ち取る姿は爽快そのもの。いいピッチャーだったなあ。

 彼は無類のきれい好き。広島の合宿所(広島市西区の三省寮)が建て替え工事の時、同部屋になったけど、ヒマがあれば掃除をしてくれていました。お菓子などこぼすとよく叱られたけど。

 焼き肉を食べるときは網に具材を乗せすぎるのを嫌がってね。「食事はゆっくり食べないと体に悪いですから」と言いながら網の上に自分のエリアを作って、少しずつ焼いてマイペースで飲んでいた。

 3、4年前。東京で会って飲んだのが最後になってしまった。その店では2曲歌ってくれた。新沼謙治の「大雪よ」と河島英五の「旅的途上」。いい歌でした。だから強く印象に残ってます。

 清川は色恋ものより、いつも人生の応援歌を好んで歌っていた。自分を叱咤し、仲間や後輩を励ます気持ちがよく表れていたように思う。

 高橋慶彦さんや北別府さんら先輩からは、いつも「キヨ」と言ってかわいがられ、僕や川口、金石、白武、津田ら年の近い連中だけでなく、周りの人みんなに愛されていた。人柄というのか、持って生まれたものなんでしょうね。

 僕なんか元気だというのに、どうして…いい人間ほど早く逝ってしまうのかなあ。そう思うと残念でなりません。

        合掌

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