偉大なるナンバー2 阿南準郎氏追悼 「オレは主役じゃない」男が広島歴代監督勝率第2位の偉業

 中日戦に完投で6勝目を挙げた北別府学(右)を迎える広島・阿南準郎監督=1986年6月26日、広島市民球場
 広島入団発表 前列左から望月一、栗田聡、小野一也、緒方孝市、後列左から阿南準郎監督、松田耕平オーナー=1986年12月24日、広島グランドホテル
 広島で活躍した阿南準郎さん=1966年3月撮影
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 広島の元監督で1986年にリーグ優勝を果たした阿南準郎氏(本名・潤一)が7月30日、死去した。86歳だった。カープ黄金時代をコーチの立場で支え、監督としても3年間指揮を執った冷静で知的な紳士。その素顔を思い出し、この場を借りて追悼したい。

  ◇  ◇

 「スポーツ紙 見てきたような ウソを書く!ははっ冗談だよ」

 広島時代の阿南さんは担当記者を講釈師になぞらえ、即興で川柳を作るような、常にブラック混じりでウィットに富む、ジェントルマンだった。

 男前。顎を引いて背筋がピン。キャッチャーフライを上げると、空高く舞ったボールが必ず測ったように真下に落ちてくる。プロ中のプロ。ただし控えめ。車は日本車。聴くのは演歌。前に出るよりナンバー2を好む人でもあった。

 そんな人が古葉竹識の後任監督となった。現役にこだわる山本浩二。深夜の(松田耕平)オーナー邸。忘れもしない1985年オフ。一つしかない“選択肢”を迫られた阿南さんは中継ぎ政権と知りながらも、「お家の一大事」と腹を固め、決断した。

 現役時代、登録名を「軽い遊びのつもりで」本名の潤一から準郎に変更した。毅から竹識にした古葉さんと一緒に変えたという。

 「(動機は)不謹慎だったかな。でも、この野球ネームが自分には合っていたと思ってる。“オレは主役じゃない”といつも思っていたからね」

 監督になってからも控えめな性分は変わらず、主役はあくまでも選手だった。

 古葉と阿南。広島時代の強い絆はその後、「武士の情け」が入る余地のない敵味方に分かれて戦う関係になっていた。

 “古葉一派”を広島から大量に引き抜き、横浜で陣を張った1年目。古葉大洋が誕生した1987年は開幕から広島が直接対決で圧倒した。

 7月まで広島の11勝3敗。ところが、8月以降は大洋の逆襲に遭い2勝10敗。終わってみれば13勝13敗の五分だった。

 のちに阿南さんは、こんな話をしていた。

 「プレーボールがかかれば古葉さんどころじゃなかった。そんな余裕はなかったよ。古葉さんはカープにひと泡吹かせようと思っていただろうけどね。負けん気が強かったから」

 阿南さんとは昨年、電話で話す機会があり、「元気ですか?」の問いかけに、「もう大変だったよ」との言葉が返ってきた。

 中咽頭がんや腹部大動脈瘤、胃と胆嚢の手術など、グラウンドから離れたあとの苦労をその時に聞いた。中でもノドの放射線治療の「ダメージが大きかった」という。

 「トータル33年、ユニホームを着ることができたんだからね。みんなが味わえない、できないことをやらせてもらえたんだから最高の人生だよ」

 背広組でも活躍し、球団の要職にもついた。広島に対する感謝の思いは尽きないようだった。

 最後に阿南監督が残した輝かしい記録を記しておきたい。3年間の通算戦績は203勝163敗24分け。勝ち星こそ多くはないが、勝率・555はカープ歴代監督第2位にあたる。

 やはり2がよく似合うのだろうか。あえて呼ばせてもらいます。偉大なるナンバー2。どうぞ安らかにお眠りください。(デイリースポーツ・宮田匡二)

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