元虎戦士・藤本敦士 引退手記【2】
13年間の現役生活でお礼を言いたい方はたくさんいます。その中で「一番」を挙げるなら…やっぱり、岡田彰布さんです。岡田さんがいなければ、僕はこの場所にいなかった。17年前のことです。椎間板ヘルニアで野球ができなくなって亜細亜大を中退。野球をあきらめかけていたときに、信じられないことが起きました。両親が経営していた居酒屋に突然、岡田さんが現れたのです。「オレが早大で世話になった人が、専門学校の野球部で総監督やってる。そこで2年間野球やって、社会人かプロを目指せるようにすればええ。リハビリがてらやればええんよ」。元南海ホークスの選手だった店の常連さんが岡田さんと知り合いで、僕が悩んでいることを話してくれていたんです。阪神ファンだった僕にとって岡田さんは大スター。わざわざ僕の地元まで来て、親身に話してくださって…もう、感激と驚きで声が出ませんでした。
専門学校の2年間で腰がよくなって、道が開けました。僕が阪神に入団したときの2軍監督、そして優勝した03年は1軍のコーチ、05年は優勝監督…。深い縁を感じました。岡田さんには一生頭が上がりません。
現役生活で一番心に残っている試合は、意外かもしれませんが、リーグ優勝や日本シリーズではありません。僕が入団したころ、「阪神にはショートがいない」と言われていました。沖原さん、田中秀太さんら、6人くらいでひとつのポジションを争っていたのですが、01年、02年と、誰も定位置を獲得できませんでした。そして迎えた03年。まだ、僕にもレギュラーを取るチャンスがあったので、ひとつのことに集中しました。それまで、ショートのレギュラー候補は投手の右、左で併用されていました。僕は左投手を打たない限り、レギュラーになれない。全試合に出られない…。たとえ、キャンプの実戦、オープン戦で左投手をそこそこ打ってもシーズンで使ってもらえる保証はない。それならば、左投手は必ず、打ってやろう。逆方向を意識しながら、内角にきたら当たってでも出塁してやろう。そんな強い気持ちを持って打席に立つようになりました。
03年の開幕戦。横浜の先発は左腕の吉見投手でした。それでも星野監督は僕を「開幕スタメン」に指名してくれました。大チャンス…と同時に大ピンチでもありました。これを逃したら、もう出番はなくなる。それまでの野球人生で一番というくらい、気合が入っていました。星野さんにどんな言葉をかけてもらったのか、興奮していて全く覚えていない。まわりを見てもすごいメンバーでしたから。たった1試合かもしれないけれど、左の吉見投手を打ったことで自信が持てました。僕がプロのスタートラインに立てた瞬間でした。03年の開幕戦が、プロ生活で一番印象に残る試合なのです。
「優勝」というものを味わったのは、小学生のときにやっていたソフトボールの大会以来。やっぱり、最高峰のプロ野球で優勝する喜びは、格別なものでした。03年の優勝セレモニーでは、金本さんとジョージ(アリアス)にグラウンドで引きずり回されて、泥だらけになりました。シャワーを浴びていて、ビールかけの会場へ向かうチームのバスに、僕だけ乗り遅れそうになったんですよ。耳の中まで真っ黒でしたから。あのシーンは子供に見せられないですね。パパ、いじめられてるの?って思われるでしょ(笑)
4人の子供の長男は今、小学2年生。僕と同じ左打ちで、野球をやっています。優勝したシーズン、テレビ局の方から記念のDVDをいただいたんですけど、どこにしまってあるのか…。テレビラックにでも置いておけば、いつか子供たちが勝手に見るかもしれませんね。僕から「見ろよ」とは言いませんが…(笑)
岡田さんが08年に阪神を退団され、僕は09年オフに移籍。阪神を外から見るようになって感じたこと…それは、よそからうらやましがられる球団だということです。決勝打を打てば新聞の1面。毎日、メディアに注目され、球場はいつも満員。僕のような選手でも、今思えば天狗(てんぐ)になっていたと思います。
4年もたてば、タイガースにも知らない顔が増えました。新聞によく「阪神は若手が育たない」と書かれていますが、僕らのときもよく言われていたことです。若手が天狗になり、勘違いする環境が、昔と変わらずあるのかもしれません。でも、僕らがいたころは、それを正してくれる人がいました。「お前ら誰や?お前らみたいなもん、誰も知らんぞ」。広島から移籍してきた金本知憲さんでした。グサッときました。自分がちっぽけに思えました。そうやって厳しく接してくれる人がいたから、道をそれずにやってこられたんだと思います。
厳しかったと言えば星野監督もそうでした。怒られたことしか記憶にありません。03年、横浜戦(横浜スタジアム)で初回にエラーをして、二回に無言で交代させられたことがありました。当時、監督付き広報だった平田さん(現阪神2軍監督)からホテルの内線で部屋に電話があり、「お前、頭丸めてこいよ」と言われました。ドン・キホーテにバリカンを買いに行きましたよ。月曜日で散髪屋さんが開いていなかったので(笑)。丸刈りで練習に行ったら、お前、ほんまにやってきたんか?って笑われましたけど…。
元虎戦士・藤本敦士 引退手記【1】
元虎戦士・藤本敦士 引退手記【2】
元虎戦士・藤本敦士 引退手記【3】
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専門学校の2年間で腰がよくなって、道が開けました。僕が阪神に入団したときの2軍監督、そして優勝した03年は1軍のコーチ、05年は優勝監督…。深い縁を感じました。岡田さんには一生頭が上がりません。
現役生活で一番心に残っている試合は、意外かもしれませんが、リーグ優勝や日本シリーズではありません。僕が入団したころ、「阪神にはショートがいない」と言われていました。沖原さん、田中秀太さんら、6人くらいでひとつのポジションを争っていたのですが、01年、02年と、誰も定位置を獲得できませんでした。そして迎えた03年。まだ、僕にもレギュラーを取るチャンスがあったので、ひとつのことに集中しました。それまで、ショートのレギュラー候補は投手の右、左で併用されていました。僕は左投手を打たない限り、レギュラーになれない。全試合に出られない…。たとえ、キャンプの実戦、オープン戦で左投手をそこそこ打ってもシーズンで使ってもらえる保証はない。それならば、左投手は必ず、打ってやろう。逆方向を意識しながら、内角にきたら当たってでも出塁してやろう。そんな強い気持ちを持って打席に立つようになりました。
03年の開幕戦。横浜の先発は左腕の吉見投手でした。それでも星野監督は僕を「開幕スタメン」に指名してくれました。大チャンス…と同時に大ピンチでもありました。これを逃したら、もう出番はなくなる。それまでの野球人生で一番というくらい、気合が入っていました。星野さんにどんな言葉をかけてもらったのか、興奮していて全く覚えていない。まわりを見てもすごいメンバーでしたから。たった1試合かもしれないけれど、左の吉見投手を打ったことで自信が持てました。僕がプロのスタートラインに立てた瞬間でした。03年の開幕戦が、プロ生活で一番印象に残る試合なのです。
「優勝」というものを味わったのは、小学生のときにやっていたソフトボールの大会以来。やっぱり、最高峰のプロ野球で優勝する喜びは、格別なものでした。03年の優勝セレモニーでは、金本さんとジョージ(アリアス)にグラウンドで引きずり回されて、泥だらけになりました。シャワーを浴びていて、ビールかけの会場へ向かうチームのバスに、僕だけ乗り遅れそうになったんですよ。耳の中まで真っ黒でしたから。あのシーンは子供に見せられないですね。パパ、いじめられてるの?って思われるでしょ(笑)
4人の子供の長男は今、小学2年生。僕と同じ左打ちで、野球をやっています。優勝したシーズン、テレビ局の方から記念のDVDをいただいたんですけど、どこにしまってあるのか…。テレビラックにでも置いておけば、いつか子供たちが勝手に見るかもしれませんね。僕から「見ろよ」とは言いませんが…(笑)
岡田さんが08年に阪神を退団され、僕は09年オフに移籍。阪神を外から見るようになって感じたこと…それは、よそからうらやましがられる球団だということです。決勝打を打てば新聞の1面。毎日、メディアに注目され、球場はいつも満員。僕のような選手でも、今思えば天狗(てんぐ)になっていたと思います。
4年もたてば、タイガースにも知らない顔が増えました。新聞によく「阪神は若手が育たない」と書かれていますが、僕らのときもよく言われていたことです。若手が天狗になり、勘違いする環境が、昔と変わらずあるのかもしれません。でも、僕らがいたころは、それを正してくれる人がいました。「お前ら誰や?お前らみたいなもん、誰も知らんぞ」。広島から移籍してきた金本知憲さんでした。グサッときました。自分がちっぽけに思えました。そうやって厳しく接してくれる人がいたから、道をそれずにやってこられたんだと思います。
厳しかったと言えば星野監督もそうでした。怒られたことしか記憶にありません。03年、横浜戦(横浜スタジアム)で初回にエラーをして、二回に無言で交代させられたことがありました。当時、監督付き広報だった平田さん(現阪神2軍監督)からホテルの内線で部屋に電話があり、「お前、頭丸めてこいよ」と言われました。ドン・キホーテにバリカンを買いに行きましたよ。月曜日で散髪屋さんが開いていなかったので(笑)。丸刈りで練習に行ったら、お前、ほんまにやってきたんか?って笑われましたけど…。
元虎戦士・藤本敦士 引退手記【1】
元虎戦士・藤本敦士 引退手記【2】
元虎戦士・藤本敦士 引退手記【3】