「ベンチがあほやから野球でけへん」~球史に残るあの言葉
【2008年1月7日付デイリースポーツ紙面より】
デイリースポーツ60周年企画、第1弾はプロ野球編。「球史に残るあの言葉」として、元阪神・江本孟紀氏(現野球評論家)の「ベンチがアホやから野球でけへん」という発言の真相を徹底取材した。その後、現役引退にまで発展したあまりにもショッキングな言葉。その著書「プロ野球を10倍楽しく見る方法」では「言っていない」と記しているが、実際は…。
いまだ球界に語り継がれる“爆弾発言”。最初に聞いたのは、阪神担当の記者たちだった。
デイリースポーツの当時トラ番キャップ・平井隆司(現サンテレビ監査役)が振り返る。
「中西太監督(当時)とも藤江投手コーチとも合っていなかった。不自然な降板だったから、すぐに若手記者をベンチ裏へ行かせた。そこで“あいつらアホやろう。オレの言うこと分からんのやから。野球できへんわ”と言ったと聞いた。有名になった言葉は、いくつかの単語を組み合わせて作ったものだった」
当事者である江本を直撃してみた。すると、あっさり発言を認めた。
「2階の選手ロッカー前に踊り場があって、KOされた投手なんかが、そこでひと暴れしてロッカーに入ることは珍しくなかった。あの日もそう。“アホ、ボケ。ベンチはアホや”そのくらいのことは言った」
その場にいた記者は若手ばかり。報告を聞いた各社のキャップが一大事とばかりに駐車場で江本の帰りを待っていた。
「“本当に言ったのか?言ったなら書くことになる”と聞かれて“確かに言った。書いていいよ”と答えた」
発言の翌日、大阪の球団事務所に呼ばれ、岡崎球団社長(当時)から「10日間の謹慎」を告げられた。「この時期に10日何もしなければシーズンは終わる。辞めろといわれたのと一緒。“じゃあ辞めます。任意引退届を出します”となった」。押し問答の末、岡崎社長が渋々持ってきた小さな紙に署名、経理に預けていた三文判を押して江本のプロ野球人生はあっけなく幕を閉じた―。
「問題になるのは別の人間のはずやった」
この試合の八回二死二塁のピンチ。打席に八番・水谷を迎えた場面で内野陣がマウンドへ集まった。『敬遠か、勝負か』。ベンチを見ると、中西監督は背中を向けて裏へと消えていった。みんな、あ然とした。
「中西さんは悪い人じゃない。でも監督には向いていない。気が弱いから勝負どころで決断できない。それは分かっていた。自分と合わないこともね。だから前年のオフにトレードを志願した。でも球団に“1年で監督は代わる。1年だけ我慢してくれ”と慰留されて仕方なく残った」
だが、予想通り首脳陣との関係は最悪。キャンプでは起用法も伝えられず、オープン戦は「忘れていた」と終盤まで登板がなかった。シーズンに入ると、好投していても「若手を試す」といって降板させられた。
「あの最後の試合も先発を言われたのは前日だったしね。別に未練もなかった」。それでも「阪神を嫌いになったことは1度もない」と言う。なぜと問えば、「甲子園がね…」と一瞬、目線を遠くに外して話し始めた。
1965年3月27日。江本はセンバツ大会開会式の甲子園にいた。グラウンドではない。バックネット裏観客席の最上段。江本擁する高知商は静岡高校と並び優勝候補に挙げられていた。ところが、大会直前の3月6日、部員の暴力事件が発覚し、出場辞退。部の解散が決まった。
「同級生は修学旅行に行ったけど選抜に出るはずだったからいまさら行けない。開会式だけでも見に行こうってね」
『幸せなら手をたたこう』のマーチに乗って選手たちが入場。高知商の代替出場となった今治南が登場すると、自然と涙が出た。隣を見れば仲間も泣いていた。
「人生であんなに泣いた日はない。人間ってこんなに涙が出るんだって思った」
悔し涙から11年後の1976年1月26日。江本は再び甲子園にいた。今度はマウンドである。江夏豊とのトレードで南海から阪神へ移籍。入団発表後、カメラマンのリクエストでポーズを取っていた。
「“ああ、甲子園はオレをもう一度呼んでくれたんだ”って思った」
江本は誓った。この甲子園で、阪神のために野球人生のすべてを捧げる、と。
チームのレベルアップにも力を注いだ。南海時代に野村克也監督、ブレイザーヘッドコーチの下で学んだ『シンキングベースボール』を、ともに移籍した島野育夫と2人で伝えた。外様としては異例の選手会長も引き受けた。すべてをかけてチームに尽くしたが…。
引退後、この発言を扱った著書はベストセラーに。野球評論家、タレント、参議院議員にもなった。ある意味「アホや」発言がその後の人生を切り開いたともいえる。
続きを見る
デイリースポーツ60周年企画、第1弾はプロ野球編。「球史に残るあの言葉」として、元阪神・江本孟紀氏(現野球評論家)の「ベンチがアホやから野球でけへん」という発言の真相を徹底取材した。その後、現役引退にまで発展したあまりにもショッキングな言葉。その著書「プロ野球を10倍楽しく見る方法」では「言っていない」と記しているが、実際は…。
いまだ球界に語り継がれる“爆弾発言”。最初に聞いたのは、阪神担当の記者たちだった。
デイリースポーツの当時トラ番キャップ・平井隆司(現サンテレビ監査役)が振り返る。
「中西太監督(当時)とも藤江投手コーチとも合っていなかった。不自然な降板だったから、すぐに若手記者をベンチ裏へ行かせた。そこで“あいつらアホやろう。オレの言うこと分からんのやから。野球できへんわ”と言ったと聞いた。有名になった言葉は、いくつかの単語を組み合わせて作ったものだった」
当事者である江本を直撃してみた。すると、あっさり発言を認めた。
「2階の選手ロッカー前に踊り場があって、KOされた投手なんかが、そこでひと暴れしてロッカーに入ることは珍しくなかった。あの日もそう。“アホ、ボケ。ベンチはアホや”そのくらいのことは言った」
その場にいた記者は若手ばかり。報告を聞いた各社のキャップが一大事とばかりに駐車場で江本の帰りを待っていた。
「“本当に言ったのか?言ったなら書くことになる”と聞かれて“確かに言った。書いていいよ”と答えた」
発言の翌日、大阪の球団事務所に呼ばれ、岡崎球団社長(当時)から「10日間の謹慎」を告げられた。「この時期に10日何もしなければシーズンは終わる。辞めろといわれたのと一緒。“じゃあ辞めます。任意引退届を出します”となった」。押し問答の末、岡崎社長が渋々持ってきた小さな紙に署名、経理に預けていた三文判を押して江本のプロ野球人生はあっけなく幕を閉じた―。
「問題になるのは別の人間のはずやった」
この試合の八回二死二塁のピンチ。打席に八番・水谷を迎えた場面で内野陣がマウンドへ集まった。『敬遠か、勝負か』。ベンチを見ると、中西監督は背中を向けて裏へと消えていった。みんな、あ然とした。
「中西さんは悪い人じゃない。でも監督には向いていない。気が弱いから勝負どころで決断できない。それは分かっていた。自分と合わないこともね。だから前年のオフにトレードを志願した。でも球団に“1年で監督は代わる。1年だけ我慢してくれ”と慰留されて仕方なく残った」
だが、予想通り首脳陣との関係は最悪。キャンプでは起用法も伝えられず、オープン戦は「忘れていた」と終盤まで登板がなかった。シーズンに入ると、好投していても「若手を試す」といって降板させられた。
「あの最後の試合も先発を言われたのは前日だったしね。別に未練もなかった」。それでも「阪神を嫌いになったことは1度もない」と言う。なぜと問えば、「甲子園がね…」と一瞬、目線を遠くに外して話し始めた。
1965年3月27日。江本はセンバツ大会開会式の甲子園にいた。グラウンドではない。バックネット裏観客席の最上段。江本擁する高知商は静岡高校と並び優勝候補に挙げられていた。ところが、大会直前の3月6日、部員の暴力事件が発覚し、出場辞退。部の解散が決まった。
「同級生は修学旅行に行ったけど選抜に出るはずだったからいまさら行けない。開会式だけでも見に行こうってね」
『幸せなら手をたたこう』のマーチに乗って選手たちが入場。高知商の代替出場となった今治南が登場すると、自然と涙が出た。隣を見れば仲間も泣いていた。
「人生であんなに泣いた日はない。人間ってこんなに涙が出るんだって思った」
悔し涙から11年後の1976年1月26日。江本は再び甲子園にいた。今度はマウンドである。江夏豊とのトレードで南海から阪神へ移籍。入団発表後、カメラマンのリクエストでポーズを取っていた。
「“ああ、甲子園はオレをもう一度呼んでくれたんだ”って思った」
江本は誓った。この甲子園で、阪神のために野球人生のすべてを捧げる、と。
チームのレベルアップにも力を注いだ。南海時代に野村克也監督、ブレイザーヘッドコーチの下で学んだ『シンキングベースボール』を、ともに移籍した島野育夫と2人で伝えた。外様としては異例の選手会長も引き受けた。すべてをかけてチームに尽くしたが…。
引退後、この発言を扱った著書はベストセラーに。野球評論家、タレント、参議院議員にもなった。ある意味「アホや」発言がその後の人生を切り開いたともいえる。